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釧路地方裁判所網走支部 昭和49年(ワ)11号 判決

原告 田中雅人 外二名

被告 斜里町

主文

一  被告は、原告田中雅人に対し金一八〇七万八〇〇〇円及び内金一六五七万八〇〇〇円に対する昭和四七年二月七日から、内金一五〇万円に対する本判決送達の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員を、原告田中義之及び同田中静子に対し、各金二二〇万円及び各内金二〇〇万円に対する昭和四七年二月七日から、各内金二〇万円に対する本判決送達の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その二を原告らの、その余を被告の各負担とする。

四  この判決は一項に限り仮に執行することができる。

事  実 〈省略〉

理由

第一原告雅人が失明するに至つた経過

一  当事者に争いがない事実

以下の事実はいずれも当事者間に争いがない。

1  原告雅人は父原告義之、母原告静子夫婦間の次男として昭和四六年九月二八日午前五時四〇分頃北海道斜里郡斜里町所在の被告病院において出生した。

原告雅人は在胎月数八か月(在胎週数約三〇週)、出生体重一三五〇グラムの未熟児であつた。

同原告は、出生後直ちに保育器に収容され、被告病院産婦人科医師崎山用演の診療保育を受けることになつた。

同原告の体温は生後三〇日目位まで三五度前後で推移した。

出生後減少した同原告の体重が出生体重まで回復したのは生後三一日目であつた。

医師崎山は、同原告を生後六三日目の一一月二九日保育器から出し、生後七八日目の同年一二月一四日退院させた。

2  医師崎山は、原告雅人を収容した保育器に酸素を供給するにあたり、保育器内の酸素濃度の調節を酸素の供給量のみによつて行い、酸素濃度測定器は用いなかつた。

同医師は、酸素投与児に本症発症の危険があることは知つていたが、同原告の出生から退院までの間、未熟児網膜症予防及び治療の観点からする眼底検査及び光凝固術を自ら実施せず、眼底検査のため眼科医の往診を求めることをせず、右診療を実施することのできる病院等に転医させる措置もとらなかつた。また、同医師は、本症につき光凝固法なる治療法があることを知らず、したがつて、また、同原告の保護者である原告義之及び原告静子に対し、本症につき光凝固法なる治療法が存在することにつき説明せず、同治療を受けるための転医勧告もしなかつた。

二  被告病院における未熟児保育の態勢

証人崎山用演、同鴫原アキノ、同柴崎育子、同中村清及び同小野田敬治の各証言、いずれも成立につき争いのない甲第二二号証の一及び乙第六号証、原本の存在及び成立につき争いのない乙第二二号証、弁論の全趣旨から真正に成立したものと認められる甲第二二号証の八並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  被告病院のある斜里町は、北海道の東端、知床半島の北側半分及びその北西部に位置する農業及び漁業の町であり、被告病院は、このような僻地である同町の医療不足を解消するため、昭和三六年、被告によつて開設された。

原告雅人出生当時、被告病院では、内科、外科、小児科、産婦人科を診療科目として掲げていたが、常勤の医師は内科、外科、産婦人科に各一名いるのみで(産婦人科の担当医が医師崎山であつた)、常勤の小児科医はおらず、同町内にも小児科医はいなかつた。また、この地方では比較的水準の高い医療措置をなしうる医療機関があるとされる網走市(被告病院から車で約一時間の所)や北見市(被告病院から車で約二時間余の所)にも、未熟児保育の専門態勢の整つている病院等があるかどうかは疑わしい状況にあつた。したがつて、被告病院で生れた新生児は、未熟児を含め、すべて被告病院産婦人科医師崎山において保育するのが常例となつていた。

2  医師崎山は、昭和三七年、北海道大学医学部を卒業後、同大学産婦人科医局、国立札幌病院、国立函館病院などで産婦人科医として勤務した後、昭和四五年五月から被告病院で勤務するようになつた者であるが、同医師は、斜里町並びにこれに隣接する清里町及び小清水町内で唯ひとりの産婦人科であつたため、非常に多忙であり、昭和四六年には、年間延べ約一万四五〇〇人の婦人及び新生児を診療、保育した。

また、当時、被告病院には約二〇名の看護婦がいたが、看護婦も不足気味であり、新生児の看護保育は、昭和四五年四月に準看護婦の資格を取得した岡崎育子(現在姓柴崎)がひとりで担当していた。同看護婦は、被告病院の新生児室で午前八時三〇分から午後四時三〇分まで勤務し、ひとりで時には一〇人内外にものぼることのある新生児達の世話をしていた。

右時間外には、新生児室専属の看護婦はいなくなり、病院全体で二名の当直看護婦が新生児達の世話もすることになつていた。

被告病院では未熟児も成熟児といつしよに新生児室で右態勢のもとで保育された。

3  被告病院には、未熟児保育用の器具として、酸素流量計と組合せて酸素濃度を調節しうるほか、加湿機能及び自動温度調節機能のある保育器(アトムV五五型)の備付があり、未熟児は必要に応じ右保育器に収容されて保育された。

なお、被告病院には、酸素濃度計や重症の未熟児を転送するのに使用できるようなポータブル保育器は備付けられていなかつた。

4  医師崎山が被告病院で勤務した昭和四五年五月から昭和五〇年五月までの五年間に、被告病院では七人の極小未熟児(出生体重一五〇〇グラム以下、在胎週数三二週以下)が生れたが、生存しえたのは原告雅人のみであつた。

5  未熟児の眼底検査等の関係では、医師崎山には眼底検査の技能はなく、眼科医も斜里町内にはおらず、近隣では、開業医が網走市内に一名、北見市内に二、三名いるのみであつた。そして、右医師達のうち、昭和四七年二月に原告雅人の眼を診察した網走市の小野田医師及び北見市の宮沢医師は、当時、いずれも、未熟児の眼底検査の経験を持たず、眼底所見により本症の進行段階を的確に判定しうるような能力は有していなかつた。しかし、両医師とも、本症に関する一般的知見は有しており、本症罹患の疑いがあると見たときには、北海道大学医学部付属病院眼科又は札幌医科大学付属病院眼科の受診を勧める用意があつた。また、小野田医師においては、本症の治療法として新しく光凝固法が登場し、脚光を浴びつつあることも承知していた。

三  原告雅人の臨床経過

1  前記当事者間に争いのない事実、証人崎山、同鴫原及び同柴崎の各証言(但し、証人崎山及び同鴫原の各証言については後記信用しない部分を除く)、いずれも原本の存在及び成立につき争いのない甲第三、第四号証、いずれも成立につき争いのない甲第二号証、乙第一四号証の一ないし五、前掲乙第六号証、並びに証人崎山の証言及び当該記載の位置、状態等から医師崎山によつて当時記載されたものと認められる乙第二号証の七中、昭和四六年一〇月一二日付記載部分及び同月二六日付記載部分を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一) 原告雅人の出生には被告病院婦長兼助産婦鴫原アキノが立会つた。

出生直後の原告雅人の状態は良好で、これの指標となるアプガールスコアは一〇点満点であつた。しかし臍帯切断後、児計測中、状態が急変し、無呼吸状態に陥り、全身チアノーゼが出現した。鴫原は直ちに蘇生器を使用した後、前記保育器に収容し、酸素供給量毎分二、三リツトルで酸素投与を開始した。

出生後二、三日の間、原告雅人の状態は悪く、著しい不整呼吸、陥没呼吸、呻吟呼吸などの呼吸障害が認められ、また、出現したチアノーゼがなかなか消退しないことがあつた。

入院期間中に何回か全身チアノーゼの発現を見たことがあつたほか、落陽現象の認められたこともあつた。

一〇月一二日から始まる原告雅人の診療録の写し(甲第三号証)には、原告雅人を診察した所見等が次のとおり記載されている(但し、一〇月一二日の記載以外はドイツ語による記載を邦訳したものである)。

一〇月一二日    「PM4:00チアノーゼ出る 2~3分で消失」

一〇月一四日    全身状態非常によい。膿疱ほとんど軽快す。

体重若干減少。

一〇月一五日    呼吸障害なし。膿疱まだ全快せず。

一〇月一六日    全身状態非常によい。

一〇月一八日    特記所見なし。

一〇月一九日    変りなし。

一〇月二〇日    右外耳炎。右耳から排膿あり。アクロマイシン点耳液注入す。

一〇月二一日    右耳からの排膿ほとんどなし。

一〇月二二日ないし三〇日 特記所見なし又は変りなし。

一一月 一日    経過非常によい。

一一月 四日ないし六日 特記所見なし又は変りなし。

一一月 九日    経過非常によい。自分の口で哺乳す。

一一月一〇日、一一日 特記所見なし。

一一月一二日    特記所見なし。酸素止める。

一一月一三日、一六日、一七日ないし一九日、二二日、二五日、二六日 特記所見なし又は変りなし。

一一月二九日    頭部発疹あり。陰嚢水腫穿刺。

一一月三〇日    全身的には特に変つたことなし。

一二月 一日    特記所見なし。

一二月 四日    下肢の浮腫まだ続いている。

一二月 六日    特記所見なし。

一二月 七日、八日 浮腫軽度あり。

一二月 九日ないし一一日 変りなし。

一二月一四日    昨日午後三時突然チアノーゼ発生す。退院。

なお、原告雅人の診療録の原本(乙第三号証)では、前記一〇月一二日の記載中、日付は一〇日と改竄され、「2~3分で消失」の部分は横線、斜線等をもつて削られ、前記一一月一二日の記載中、「酸素止める」の部分は擦り取られて抹消され、新たにもとはなかつた一一月二七日の記載が加わり、前記一二月一四日の記載は日付部分を除いて全部擦り取り抹消されているので、注意を要する。後記のとおり、これらの改竄、抹消、新たな記入は、いずれも、本件訴えが提起された前後頃(本件訴えの提起された日は昭和四九年五月一六日である)、医師崎山が行つたものである。

(二) 生後三日目までの原告雅人の呼吸数は、その記録がなく、不明である。

生後四日目から生後九日目の一〇月六日までの間は、原告雅人の呼吸数は少なく、午前九時の計測で、一分間二〇から二四の間で終始した。

その後の二週間は三〇前後で推移していたが、その後、生後二三日目の一〇月二〇日から生後三六日目の一一月二日までの二週間は二〇から二四の間で終始した(但し、この間に合せて三日分、記録の欠落がある)。

その後は、退院まで二八から三六までの間に落ち着いていた(但し、この期間については、約半数の日数について記録の欠落がある)。

(三) 原告雅人の体重は、出生後徐徐に落ちて、生後一週間目の一〇月四日には一二四〇グラムを記録し、生後一〇日目の一〇月七日から生後一四日目の同月一一日にかけて一一七〇グラムの最低値を記録し、その後、緩慢な回復過程を経て、生後三一日目の同月二八日、一三五〇グラムの出生体重にまで回復した。そして、その後は順調に増加を続けて生後四二日目の一一月八日には一六二〇グラム、生後四三日目の同月九日(これまでのカテーテル栄養から経口栄養に切り換えられた日)には一六四〇グラム、生後四六日目の同月一二日(酸素投与が中止された日)には一七六〇グラム、生後五三日目の同月一九日には二〇〇〇グラム、生後六三日目の同月二九日(原告雅人が保育器から出された日)には二五九〇グラム、生後七一日目の一二月七日(当初の出産予定日)には三〇〇〇グラム、退院の前日で生後七七日目の同月一三日には三三五〇グラムにそれぞれ達した。

(四) 原告雅人の体温は、生後約一か月間は低体温の状態が続いた。検温は、午前九時及び午後三時の二回なされていたが、特に、生後七日目の一〇月四日午前九時にはセ氏三四度九分、生後一五日目の一〇月一二日午後三時にはセ氏三四度八分、翌一三日午前九時にはセ氏三四度七分、午後三時にはセ氏三四度八分、翌一四日午後三時にはセ氏三四度七分、翌一五日午前九時にはセ氏三四度八分、午後三時にはセ氏三四度七分、生後二三日目の同月二〇日午後三時にはセ氏三四度八分、生後二七日目の同月二四日午前九時にはセ氏三四度九分、翌二五日午前九時及び午後三時にはいずれもセ氏三四度八分、翌二六日午後三時にはセ氏三四度九分と、セ氏三四度台を記録した〔なお、原告雅人の新生児記録の原本(乙第一号証)では、同原告の体温グラフ中、一〇月一一日から同月一三日にかけての部分は後記、医師崎山による後日の改竄により変形しているので注意を要する〕。しかし、右の間も、生後五日目頃からはおおむねセ氏三五度前後を維持し、低体温ながら安定していた。

体重がほぼ出生体重にまで回復し、順調に増加し始めた生後三〇日目の一〇月二七日から生後五七日目の一一月二三日までの間は、三五度台の日と三六度台の日が相半ばした。

三五度台を記録したのは右一一月二三日が最後で、翌日からは、退院まで、途中三日間三七度台の日があつたほかは、三六度台に終始した。

(五) 脈搏数についても、出生当初の三日間については記録がない。

午前九時の計測で、生後四日目から生後二週間目の一〇月一一日までは、一分間九〇台から一一〇台の間の数を示したが、その後は一二〇台から一三〇台の間で安定していた(但し、生後三七日目の一一月三日以降は、記録のない日が半数近くある)。

(六) 以上のような経過をたどつた原告雅人に対する酸素投与の状況は、次のとおりである。

(1)  医師崎山は、未熟児に高濃度の酸素を投与した場合に本症による失明の危険があることは知つており、酸素投与の要否と酸素の供給量は同医師が決定した。

同医師は、酸素の供給量を毎分三リツトルから〇・五リツトルの範囲内で増減させたが、前記保育器の説明書(乙第六号証)には、酸素の供給量が毎分三リツトルのときの保育器内の酸素濃度は三三パーセントないし三七パーセント、毎分二リツトルのときの保育器内の酸素濃度は二八パーセントないし三〇パーセント、毎分一リツトルのときの保育器内の酸素濃度は二四パーセントないし二五パーセントと記載されていた。そして、昭和四九年六月、被告病院で酸素濃度計を購入し、右保育器につき、酸素の供給量と器内酸素濃度との関係を追試したところ、酸素の供給量毎分三リツトルでは、器内の酸素濃度は四〇パーセントまで達しないとの結果を得た。

(2)  医師崎山は、原告雅人に対し、生後二九日目の一〇月二六日午後四時頃まで酸素投与を継続したが、その間、同原告の出生直後頃の状態の悪い間は毎分二、三リツトル程度の酸素を投与し、一〇月四日には毎分一リツトルで酸素を投与したことがあり、一〇月一一日午後四時から三〇分間は毎分三リツトル、同四時三〇分以降は毎分二リツトル、翌日午前七時三〇分からは毎分一リツトル〔この一リツトルは、後記、医師崎山による改竄前の原告雅人の新生児記録の写し(甲第四号証)の記載によつて認定したものであるが、同新生児記録の原本(乙第一号証)では、もとあつた酸素の供給量を示す数字「1」が「2」と改竄されているので注意を要する〕の酸素を投与し、同日はその後毎分二リツトルに増量したが、同日午後九時以降は毎分一リツトルとした。

その後、一一月八日頃から同月一二日までの間に合計約九〇〇〇リツトルの酸素を投与し、同日、本格的に酸素投与を中止した。

(3)  このようにして使用した酸素の消費状況は次のとおりである。

原告雅人出生時に使用を開始した七〇〇〇リツトル入りボンベ中の酸素を同原告の生後六日目の一〇月三日までに使い切り(右五日間における酸素の平均消費量は計算上一分間一リツトル弱くらいとなる)、この日新たに七〇〇〇リツトル入りボンベの使用を開始した。同様に、生後一四日目の同月一一日(右八日間における酸素の平均消費量は計算上一分間〇・六リツトル強くらいとなる)、生後一九日目の同月一六日(右五日間における酸素の平均消費量は先の五日間の場合と同一である)、生後四二日目の一一月八日(前回酸素ボンベ取換時より二四日目にあたる。但し、前記のとおり、途中一〇月二六日に酸素投与の中止がある)にそれぞれまでの七〇〇〇リツトル入り酸素ボンベ中の酸素を使い切り、新たに七〇〇〇リツトル入りボンベの使用を開始した。そして、生後四六日目の同月一二日頃までに、同月八日に使用を開始した七〇〇〇リツトル入りボンベ中の酸素を使い切り、新しい七〇〇〇リツトル入りボンベの使用を開始し、およそ二〇〇〇リツトルの酸素を消費したところで、酸素の使用を中止した。

(七) 食餌は、出生後約五一時間経過後の一〇月三〇日午前九時から始めた。カテーテル栄養の方法で、初日は五パーセントのブドウ糖液を一回に三ミリリツトルづつ計八回にわたつて与え、翌日からはミルクを与えた。初日のミルク量は、一回四ミリリツトルを八回与え、以後徐徐に増量していつた。前記最低体重の状態が続いた期間中の一〇月一一日から同月一三日にかけては、ミルク量の機械的増量を抑えている。また、生後三四日目の一〇月三一日から経口栄養に切り換える前日の一一月八日までの間には、四日間及び五日間にわたつて同量のミルクを与え、その間一回しか増量していない。その後、生後五〇日目の一一月一六日(この日の原告雅人の体重は一八九〇グラムである)頃からは、増量傾向に変りはないか、日により、与える時刻により同原告のミルクの摂取量に多寡が出てき、この状態が退院まで続いている。

以上の事実を認めることができ、右認定に反する証人崎山及び同鴫原の各証言の一部、乙第一号証及び同第三号証中、先に指摘した医師崎山による各改竄部分、同第二号証の二ないし七(同第二号証の七については、先に証拠として認定に供した部分を除く)並びに同第五号証はいずれも信用できず、他に右認定に反する証拠はない。

ところで、被告が、原告雅人の診療経過、特に同原告の全身状態と投与酸素量調節の経過について、請求原因に対する認否及び被告の主張3の(二)の(2) 中において主張するところは、以上認定の程度に止まるものではなく、更に詳細かつ具体的な原告雅人の状態とこれに対する医師崎山の対処振り及びそれらを通じて同医師の酸素投与の方針を明らかにしたものとなつており、これらに沿う証拠として、証人崎山の証言、乙第二号証の二ないし七及び同第五号証があるが、これらはいずれも信用できず、他に、前記認定したところ以上に詳細な診療経過(特に、原告雅人につき、酸素投与の適応とされる呼吸障害やチアノーゼが認められた時期及びその期間中における酸素流量増減の経過、医師崎山が行つた酸素流量及び酸素供給の要否決定の方針。但し、後記第三での推認事実を除く)を明らかにしうる証拠はない。

2  なお、本件訴訟においては、原告雅人の臨床経過に関する前掲乙第二号証の二ないし七、同第五号証及び証人崎山の証言の信用性は、極めて重要な問題であり、原、被告間で激しく争われた点でもあるので、右各証拠を信用できない理由を次に述べることとする。

(一) 乙第一号証(原告雅人の新生児記録)及び同第三号証(原告雅人の診療録)には、それぞれ多数箇所にわたつて、記載を擦り取り、或いはインク消しを用いて記載を抹消した痕跡が見られるほか、乙第四号証(原告静子の診療録)中にも、九月二九日付記載欄と一〇月五日付記載欄に、それぞれそこにあつた記載を一部擦り取つて抹消した痕跡が見られる。

証人崎山及び同中村の各証言、前掲甲第三、第四号証並びに原告義之本人尋問の結果を総合すると、乙第一号証及び乙第三号証中に右に指摘したような痕跡が印されるに至つた経過は次のとおりである。

右原告雅人の診療録及び新生児記録は、昭和四七年二月一七日頃、原告義之が被告病院から借り出し、原告雅人の眼を診てもらうため同原告を札幌医科大学や東京国立小児病院などに連れて行つた際、診断の参考資料として右書類を担当医師に見せるなどの目的で使用した後、右各書類の写しを取り(甲第三、第四号証はこの際に取つた写しである)、昭和四九年四月一日被告病院に返却した。

右各書類が被告病院に返却された段階では、同各書類上には前記抹消痕の如きものはなく、同抹消痕等は、その後、医師崎山が種種の書き加えをし、更に、それを抹消したことによつて印されるに至つたものである。先に個個的に指摘した文字の改竄、もとあつた記載の擦り取りの方法による抹消及び新たな記入も、この際になされたものである。

右に指摘した後日記入と抹消、改竄の事実は、医師崎山も証言中で自認するところであり、このような所業に出た理由を次のように供述している。

医師崎山は、原告雅人が出生した当初から、同原告が生存しえたときには、極小未熟児保育の一事例ということで学会ででも発表しようかと考え、診療録とは別に、診療メモ(乙第二号証の二ないし五)及びO2記録(乙第二号証の六)を作成するなどしていたが、診療録と新生児記録を原告義之に借り出されてしまつたため、右発表準備の作業にも取り掛れないでいたところ、昭和四九年四月になつて、ようやく診療録と新生児記録が返却されてき、そして、原告義之は原告雅人の失明の件を訴訟にはしないと聞いたので、各関係書類上に散在するデータをまとめるべく、また、書類間に存する不一致を統一するべく、種種の書き入れ、記載の修正などをしていたところ、意外にも本訴が提起されたので、各書類を当初の状態に戻したうえで裁判の資料に供するのが良かろうと考え、後日書き入れた部分を抹消するなどしたのであつて、他意はない。

しかし、医師崎山が前記書類の改竄等を行つた時期について見るに、それは、前記認定のとおり、原告雅人の退院後二年数か月も経過した後のことであるうえ、原告義之本人尋問の結果、証人中村の証言、同証言によつていずれも真正に成立したものと認められる乙第二五、第二六号証を総合すると、原告義之は、昭和四七年二月一七日頃被告病院を訪れて原告雅人の診療録と新生児記録を借り出した後は、昭和四九年三月二〇日まで被告病院を訪れたことがなく、同日は予告なしに被告病院を訪れて医師崎山に面会を求め、同医師に対し、原告雅人が本症で失明したことを告げたうえ、同原告を酸素保育するにあたり本症発症の危険を予期していたか否かを問い質すなどして婉曲ながら同医師の責任追求の姿勢を示したこと、その後、同月二五日には岐阜地方裁判所において本症に関する損害賠償請求事件につき原告勝訴の判決が言渡されていること、原告義之は同年四月一日にも被告病院を訪れ、応対に出た被告病院事務長中村清に対し、被害の補償を請求する旨言明し、満足のいく回答が得られない場合には訴訟も辞さないとの強い姿勢を示したこと、原告雅人の診療録及び新生児記録が返却されたのはこの時であつたことがそれぞれ認められるのであつて、右事実及び本件訴えの提起された日が同年五月一六日であることからすると、医師崎山が診療録等の返却を受けた時期というのは、原告義之が原告雅人の失明につき同医師の診療上の責任追及の決意を固め、その旨を被告病院側に宣明した時期にあたるのであり、原告義之との話合いの席にも出たことのある同医師が、このような情勢の推移に気付かぬはずはなく、前記同医師の弁解中、同原告は訴訟にはしないと聞いたとの部分は虚偽と断じてよく、そして、そのような時期に、診療経過を示す最も重要な書類である診療録や新生児記録に手を入れたということはまことに不審な振舞であつたといわなければならない。

また、前記のとおり、医師崎山の作成した診療録の記載は極めて簡単であり、学会発表まで考えていた医師の記載したものとは到底思われないし、未熟児保育上最も困難な時期であり、かつ、未熟児保育研究の観点からも重要な意義を有するのではないかと考えられる出生直後から一〇月一一日までの診療録が存在しないというのも、まことに不可思議といわなければならない(証人崎山は、右期間中についても診療録は作成しており、原告義之に診療録を貸出したところ、同原告から同期間部分が返却されなかつたのである旨供述するが、原告義之は、本人尋問中において、これを真つ向から否定する供述をしていること、証人崎山の証言及び原告義之本人尋問の結果によれば、医師崎山が、原告義之に対し、診療録に未返却の部分があるとして、該部分の返却を求めたという事実はなく、同医師は、同原告から診療録の返却を受けるや、直ちに診療録への記入、文字の改竄等の作業に取り掛つていることが認められるところ、同医師の右態度は、学会発表を考えているのに、診療録中重要部分の返還が受けられなかつた医師の態度としてはまことに不自然であること、証人崎山の証言及び成立につき争いのない乙第一五号証によれば、被告病院では、従来から新生児については診療録を作成しないことがあり、たまたま本件訴訟において原告雅人との対照例として取上げられることになつた武山ベビー(昭和四六年六月出生、出生体重一八二〇グラム、酸素投与例)についても診療録は作成されていないことが認められること、前記原告雅人の診療録の記載中、一〇月一二日の記載以外はすべてドイツ語で記載されているのに、同日の記載のみは稚拙な女文字で記載されており、かつ、証人崎山においても、同日の記載については自己が記載したものではない旨供述しているところからすると、同日の記載は医師崎山以外の者が記載したものと認められるが、証人崎山において自己が記載したものであることを自認する翌翌日からの記載は、甲第三号証によれば、右一二日の記載に続けて用紙の途中から書き始められていることが明らかであるので、同医師は、ここから診療録への記入を始めたのではないかと見る余地があること等からして、証人崎山の前記供述は信用できず、かえつて、医師崎山は、一〇月一一日までは診療録を作成していなかつた疑いが強い)。更に、原告義之本人尋問の結果によれば、原告雅人の退院後、医師崎山から同原告のその後の状態等について原告義之らのもとに、問い合わせが来たという事実は一切なく、診療録及び新生児記録についても、原告義之が借り出していた二年余の間に、一度だけ被告病院から返還を求める葉書が届いただけであることが認められるのであつて、この事実からすると、医師崎山は、追跡調査の必要性も診療録及び新生児記録の必要性もさして感じていなかつたものと推測することができ、同医師が原告雅人の保育について学問的関心を抱いていたというのは極めて疑わしい。

更に、先に示した如く、医師崎山の行つた新たな記入と文字の改竄は、対照できるものがなければ、当初からの記載か後に記載したものかも判然としなくなるような態様でなされており、加えて、後日記入部分の抹消の仕方も該部分を擦り取り、そこにどのような記載がなされていたかを肉眼的に知ることを不可能ならしめるという徹底した方法であつて、同医師の行つた後日記入と文字の改竄及びそれらの抹消振りは、そのような行為を行つたこと自体が不審であるのみならず、その方法、態様が更に右不審を増幅させるものとなつている。

以上のほか、次に指摘する乙第二号証の二ないし七上に存する疑念や証人崎山の供述中に、医師崎山が本訴の提起により非常に心理的に動揺した旨の供述があること等を合せ考えると、同証人の書類の改竄等に関する前記弁解は全く信用できず、医師崎山は本件紛争の発生に動転し、やがて顕となるべき自己の診療行為を糊塗すべく、診療録、新生児記録等に新たな記入、当初からの記載の改竄等を行つたが、その後、原告雅人の診療録及び新生児記録については原告側によつて既に写しが作成されていることに気付き、このままでは自己の右意図が明白になるため、新たな記入部分の抹消等を行つたとの疑いが強い。

なお、先に指摘した原告静子の診療録(乙第四号証)中に存する二箇所の抹消痕は、乙第二号証の二(診療メモ)中、後記各該当期日の記載に相当する記載がなされた後、抹消された跡ではないかとの疑いを容れる余地がある。

(二) 乙第二号証の二ないし五(診療メモ)は、証人崎山の供述するところでは、医師崎山が、学会発表を考え、診療録の記載を補うべく、本件診療当時、携帯していた手帳に、原告雅人の状態等をメモ書きしたものであるとのことである。

しかし、右診療メモの記載された状態を見ると、同一筆記具(おそらくは万年筆)で全部同一機会に記載されたのではないかとの印象を受ける。

また、記載内容自体を見ても、例えば、原告静子の診療録中の抹消痕との関連性を指摘した九月二九日欄の記載は、寝ている母親を起して原告雅人の生命が危険なこと及び眼障害のおそれがあることにつき説明した云云というものであり、同じく一〇月五日欄の記載は、母親の退院にあたり、児のこと等につき説明したいこともあるから、一週間後に来院するよう告げたというものであるところ、これらは、後記眼科医受診指導義務を念頭に置いた医師崎山の自己弁護のための記載と見るよりほかには、さしあたりその意義を見出し難い記載であり(これらの記載がさして意義のない記載であることは、同医師も証言中で自認するところである)、同様の感を免れ難い記載がほかにも数か所にわたつて見受けられるのである。

更に、診療経過に関する記載を他の証拠と対照してみると、原告雅人の診療録の写し(甲第三号証)及び同原告の新生児記録の写し(甲第四号証)中に酸素投与中止の記載があり、以後これら上からは酸素投与関係の記載が全くなくなる一一月一二日以降も、乙第二号証の二ないし五では、一一月一八日、同月二五日、一二月八日と全身チアノーゼが出、そのため蘇生器を使用した後、暫く酸素を投与したことになつているのであるが、これは前記診療録の記載から受ける印象や証人柴崎の供述内容とは相反するものであるし、酸素を投与するためには保育器が必要であり、蘇生器の使用、酸素の使用及び保育器の使用は、いずれも診療報酬請求の対象となるので、看護婦は必ず新生児記録上に記載しなければならない処置とされているのに(証人鴫原、同柴崎及び中村の各証言並びに前掲乙第一四号証の一ないし五により認める)、原告雅人の新生児記録の写し(甲第四号証)中には、該当する記載は全く見出しえないのである(但し、保育器の使用関係については一二月一日以降)。更に、同診療メモの記載に関しては、このほかにも、一一月一二日以前の段階での蘇生器使用の記載等、通常の事務処理の経過からすれば、新生児記録上に本来あるべき裏付記載を欠く部分が相当箇所にわたつて見受けられるのであつて、これらのすべてを、証人崎山において供述するような、すべては看護婦の新生児記録への記載漏れと見るのは無理なように思われるのである。

以上のほか、乙第三、第四号証上の抹消痕等及び同第二号証の六、七等に関して存する前、後記疑念を合せ考えると、同第二号証の二ないし五の作成経過に関する同証人の前記供述は信用できず、同文書は、医師崎山が本件訴訟において自己を弁護するため、本件訴えが提起された前後頃、真偽折り交ぜて記載したものではないかとの疑いがあり、信用できない。

(三) 乙第二号証の六(O2 記録)は、証人崎山の供述するところでは、医師崎山が原告雅人に対して投与した酸素の流量をその都度記録したものであるとのことである。

しかし、右O2 記録に記載された酸素投与期間及びその間における酸素の流量(これは、被告が、請求原因に対する認否及び被告の主張3の(二)の(2) 中において主張するとおりである)と前記認定にかかる原告雅人の新生児記録中に記録された酸素ボンベの使用状況やそれから計算される酸素の平均流量とを対照すると、酸素投与期間及び流量の両面にわたつて、両者間には格段の相違があり、不審である。すなわち、新生児記録の記載では、酸素投与がなされたのは一一月一二日までで、その間に投与された酸素の総量は約三万七〇〇〇リツトルであるのに対し、O2 記録の記載では、酸素の投与は一二月八日まで行われており、その間における酸素の供給総量は、同記載によつて計算すると、一一月一二日までで六万九八五五リツトル、一二月八日までで七万一八一〇リツトルとなり、酸素投与期間、酸素投与量ともO2 記録の記載の方が新生児記録の記載をはかるに上廻つている。ところで、その内、新生児記録の記載については、それが本件診療当時、通常の事務処理の過程で作成されたことが明らかであること、原告雅人の保育を担当した看護婦である証人柴崎は、使用した酸素ボンベにつき記入漏れがあつたことを否定する供述をしているところ、新生児記録の記載では、酸素ボンベは、原告雅人の出生から一〇月一六日までの間は、五日、八日、五日の間隔で取り換えられたことになつており、記入漏れを感じさせるような不規則性は見出されないこと等から判断すると、酸素ボンベの取換関係についての新生児記録の記載は相当の信用性を有し、他方、これと大巾に齟齬し、信用性につき積極に解すべき事情も特に見出されないO2記録の記載に対しては疑問を抱かざるをえない。そして、更に、乙第二号証の二ないし五及び同第三、第四号証上に存する抹消痕等に関して前、後記疑念の存することをも合せ考えると、O2 記録についても、前記診療メモ同様、医師崎山が、本件訴訟において自己の診療行為を正当化するために作成したものではないかとの疑念を抱かざるをえず、乙第二号証の六の作成経過に関する証人崎山の前記供述は信用できず、したがつて、同書証もまた信用することができない。

(四) 乙第二号証の七(指示簿)は、証人鴫原、同柴崎及び同崎山の各証言によれば、これは、医師崎山が日日看護婦に対する具体的指示事項を自ら記載し、又は、看護婦に筆記させたものであることが認められる。

しかし、乙第三、第四号証の抹消痕等や乙第二号証の二ないし六に関して存する前記疑念のことを考えると、指示簿の記載についても、診療録や新生児記録同様、後日記入や既にあつた記載の抹消、文字の改竄かなされているのではないかとの一応の疑いを抱かざるを得ないところ、そのような疑いの目を持つて、指示簿中、原告雅人に関する記載部分を観察すると、酸素投与に関する部分や本症の治療法としてのプレドニン投与に関する部分を中心に、そのようにも見える部分が相当箇所にわたつて見受けられる。したがつて、乙第二号証の七については、その記載状態から判断して、後日記入又は後日改竄の疑いを容れえない部分以外は信用することができない。

(五) 右乙号各証を信用できない理由が以上のようなものであり、そして、乙第五号証及び証人崎山の証言中、原告雅人の診療経過に関する部分が右乙号各証を全面的にその前提とするものである以上、乙第五号証及び証人崎山の証言中、右部分は、他に相当の裏付証拠のある場合以外は信用することができない。

四  医師崎山による早期転医措置及び眼科医受診勧告の有無について

1  証人崎山の証言並びに原告義之及び同静子各本人尋問の結果によれば、医師崎山は、原告雅人に対し、被告病院におけるよりも程度の高い全身管理や酸素管理を受けさせるため、同原告を出生後一、二週間程度の早期に然るべき施設に転医させるべき何らの措置も講じなかつたことを認めることができる。

2  前記当事者間に争いのない事実、原告義之及び同静子各本人尋問の結果並びに証人崎山、同鴫原及び同柴崎の各証言(後記信用しない部分を除く)を総合すると、医師崎山及び病院関係者らは、原告雅人の保護者である原告義之及び同静子に対し、原告雅人につき本症発症のおそれがあること及び本症による失明の可能性につき説明し、本症罹患の有無、治療法の存否及び治療の要否等につき診断を受けさせるため、眼科医受診を勧告、教示するということは一切していないものと認められ、これに反する証人崎山、同鴫原及び同柴崎の各証言の一部並びに乙第二号証の二、五はいずれも信用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。即ち、証人崎山は、乙第二号証の二を根拠に、請求原因に対する認否及び被告の主張3の(二)の(6) のイ、ロに沿う供述をしているが、これらの証拠については、前記これらを信用できない理由のほか、証人田中洋子の証言及び原告静子本人尋問の結果に照らして信用できない。また、証人鴫原及び同柴崎の各証言(前、後記信用しない部分を除く)並びに原告義之及び同静子各本人尋問の結果によれば、一二月一四日、原告雅人引き取りのため来院した原告義之が原告雅人をあやしていたところ、看護婦の岡崎(現在姓柴崎)が、同原告の眼は見えないようである旨述べたため、原告義之及び同静子が岡崎の右発言を聞き咎め、そのため、鴫原婦長が被告病院の内科医に依頼して原告雅人の眼を懐中電灯を使つて診てもらつたうえ、原告義之らに対し、必配はないと思うが、なお心配であれば、眼科医に診てもらうとよい旨述べ、原告義之らをして、原告雅人を引き取つて帰らせたことが認められる。ところで、証人鴫原及び同岡崎は、その際、鴫原は、原告義之らに対し、原告雅人につき本症が発症しているおそれ及び本症による失明の可能性につき説明し、その関係での眼科医受診を勧告した旨供述するが、原告義之及び同静子各本人尋問の結果によれば、原告義之らは、鴫原の説明を聞いて安心して帰宅し、翌年になつて原告雅人の眼がおかしいことに気付くまで、同原告の眼の障害のことは全然念頭になかつたことが認められるのであつて、この事実に照らすと、原告雅人の退院時に鴫原が原告義之らに述べた事項は、一般的な乳児検診の受診指導の域を出ないものであつたと推認することができ、証人鴫原及び証人柴崎の前記各供述はにわかに信用できず、同各供述に沿う証人崎山の証言及び乙第二号証の五も信用できない。

五  原告雅人の退院後、失明の事実が判明するに至るまでの経過

右に関しては、成立につき争いのない甲第二一号証、証人小野田の証言並びに原告義之及び同静子各本人尋問の結果を総合すると、請求原因1の(三)のとおりの事実を認めることができる。

第二本症に関する医学知見

一  欧米における本症の歴史

いずれも原本の存在及び成立につき争いのない甲第七号証、同第三四号証、同第四六号証、同第五九号証、同第九五号証、同第一一〇号証、同第一二二号証、同第一二五号証、同第一二七号証、同第一三六号証、同第一六九号証、同第二二三号証、同第二二九、第二三〇号証、同第二七七号証、乙第三六、第三七号証、同第四二号証、同第四三号証の一、同第五五号証及び同第七〇号証の一、二を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  一九四二年、アメリカのテリー(Terry )は、本症により失明している未熟児の例を初めて報告し、一九四四年、Retro/lental Fibroplasia (水晶体後部線維増殖症)と名づけた。

アメリカでは、一九四〇年代の後半から急激に本症の発症が増加し、一九五二年には、過去一〇年間における本症による失明患者は約八〇〇〇人に達したと推定された。

2  本症の原因としては、当初は、先天異常、子宮内環境関与、未熟児のビタミンE欠乏、母体の水溶性ビタミンや鉄の欠乏、粉乳、輸血、未熟児への光刺激、酸素不足等が推測されたが、やがて酸素以外の要因はほとんど顧みられなくなつた。

本症が未熟児に見られる後天性の眼疾患であることが明らかになつたのは一九四九年になつてである。この年、アメリカのオーエンス(Owens )、リース(Reese )らは、未熟児の眼底の観察によつて、本症か未熟児の生後に起る網膜血管の異常増殖であることを確認した。

一九五一年にはオーストラリアのキヤンベル(Campbell)がメルボルンの三つの未熟児保育施設を比較した結果、酸素投与量の多い施設に本症の発生頻度が高いことを見出した。そして、この頃から、アメリカやイギリスでも、酸素投与量と本症との相関関係を指摘する報告が相次いだ。

一九五二年、アメリカのパツツ(Patz)らは、未熟児を二群に分け、六五ないし七〇パーセントの酸素の中に四週間入れた二八名と四〇パーセント以下の酸素の中に入れた三七名とで本症の発生頻度を比較し、本症の発生頻度は前者の群に明らかに多いことを確認した。

一九五三年、イギリスのアシユトン(Ashton)は、新生猫を使つた実験で幼猫を高濃度の酸素環境下に置くと、出生時未だ発達途上にある幼猫を網膜の細小血管は強く収縮し、毛細血管の閉塞が起り、この状態が数時間以上続くと、空気中に戻しても回復しないこと、血管の閉塞に続いて起る変化は血管の増殖であり、残存血管の周りに血管の新生、増殖が起ること、網膜血管系の完成した猫では以上のような変化は起らないことを見出した。

また、一九五六年、アメリカのキンゼイ(Kinsey)らは、一九五三年七月から翌年六月までの一年間に体重一五〇〇グラム以下の未熟児七八六例について実験、調査した結果、本症の発生は保育環境の酸素濃度と酸素投与期間とに比例する関係があること、本症が発症した場合に、酸素を吸入している子を保育器から急激に大気中に出しても、吸入酸素量を徐徐に制限しながら出しても差がないこと、酸素投与を全身症状の危険な場合にのみ行うことにしても、そのため死亡率が上昇することはないことを報告した。

3  これらの研究結果を承けて、一九五四年、アメリカの眼科耳鼻咽喉科学会は、本症に関する勧告を発し、未熟児に対する酸素の常例的使用をやめること、酸素の使用はチアノーゼ或いは呼吸障害のあるときのみに限ること、呼吸障害がとれたら直ちに酸素投与を中止することを提唱した。

こうして欧米では、酸素投与は、一九五〇年代の半ば頃から厳しく制限されるようになり、それとともに本症による眼障害の発生は劇的な減少を見るに至つた(例えば、ザハリアス(Zacharias )は、一九六三年、アメリカでは一九五八年以降約三〇例の水晶体後部線維増殖症患者が出たに過ぎないと述べている)。

4  このように、欧米では、一九五〇年の半ば過ぎ頃には、酸素制限説が支配的となつていたが、これに対して反省を迫つたのが、アベリーとオツペンハイマー(Avery & Oppenheimer )である。一九六〇年、同人らは、呼吸窮迫症候群による死亡は、酸素投与を制限しなかつた一九四四年から一九四八年と酸素投与を制限した一九五四年から一九五八年とを比較すると、後者の期間の方が明らかに上昇していると発表した。

そして、右発表が契機となつて、従来の酸素投与法に対する見直しが行われ、一九五〇年代後半に行われた硬直した酸素制限説に替つて、児の状態に応じて必要な濃度、期間、酸素を投与するという柔軟な投与法が徐徐に行われるようになつていつた。これは、本症の原因となるのは血中の過剰な酸素であつて、環境酸素濃度そのものは直接の原因とはならないから、呼吸障害により血中の酸素が少ないときには、救命及び脳性麻痺防止のため積極的に高濃度の酸素を投与しても、直ちに本症の発症をもたらすものではないとの考え方に基づくものであつた。

そして、児の状態に応じた最適の酸素濃度を得る方法として、一九六二年、イギリスのワーレイとガードナー(Warley & Galrdner )は、一度チアノーゼが消えるまで酸素濃度を上げ、消失したら徐徐に酸素濃度を下げてチアノーゼが軽く出現する濃度を見出し、その濃度にその濃度の四分の一を加えた濃度を与えるという方法を提唱した。

そして、一九六四年、アメリカ小児科学会は、できるならば酸素濃度は四〇パーセントを越えないようにと勧告しながらも、眼に障害を与える可能性があるからといつて、酸素の任意の使用を(そしておそらくは生命をも)否定するのは賢明でない旨述べた。

5  ところが、一九六〇年代当初から始まつた右酸素投与法の転換は、再び水晶体後部線維増殖症患者発生増の危険をもたらすとともに、新たな難問を提起することになつた。

一九六七年、イギリスのマクドナルド(Mac Donald)は、在胎週数三一週以下の未熟児で、無呼吸発作を反復していた症例では、本症の発生率と脳性麻痺の発生率とは逆の関係にあり、酸素を一〇日以内に打切つたものには、本症の発生は少ないが、脳性麻痺が多発し、酸素を一一日から二五日にかけて十分に投与したものには、脳性麻痺の発生は少ないが、本症の発生が多いことを報告した。

6  一九六〇年代の中頃からは、血中の酸素が問題であるのであるならば、チアノーゼを指標とするよりも、動脈血の酸素分圧(PO2 )を指標として酸素投与量を決定する方がより合理的であるとの考えかたに基づき、網膜を傷害しない動脈血のPO2 値の上限を探る研究が開始された。

一九七〇年代に入ると、アメリカでは、PO2 値測定を実施する際に存する実際上の困難を克服し、同測定値によつて酸素投与量を調節する方法が盛んに行われるようになつていつた。

一九七一年、アメリカ小児科学会胎児新生児委員会は勧告を発し、動脈血中のPO2 値は一〇〇ミリ水銀柱(Hg)を越えてはならず、六〇ないし八〇ミリHgに維持されるべきであり、PO2 値測定には、撓骨動脈又は側頭動脈から採血するのが理想的であるが、臍帯動脈からカテーテルを入れて腹部大動脈から採取した血液で代用してもよい旨、及び酸素療法を必要とするような未熟児は、血液ガスの測定値に基づいて吸入させる酸素量を決定することができるような病院へ移送すべきである旨述べた。

現在、アメリカでは、各地の病院に新生児集中治療室が設けられ、ここに酸素療法を必要とする未熟児が集められ、PO2 値を頻回測定する方法によつて酸素投与が行われ、呼吸障害の治療及び本症の予防に極めて良い成績を上げつつある。

7  アメリカでは、最近は、本症の予防及び治療については、PO2 測定によつて過剰な酸素投与を避けるという方法による予防にその重点が置かれ、本症の予防及び治療の観点からする眼底検査はほとんど行われておらず、本症に対する光凝固治療の研究も進んでいない。

二  本症の臨床経過の分類

1  本症の臨床経過の分類としてオーエンスの分類があり、その内容が請求原因3の(一)の(2) のロのとおりであることは、当事者間に争いがない。

2  いずれも原本の存在及び成立につき争いのない甲第二六号証、乙第四三号証の二及び同第五二号証の三並びに前掲乙第四二号証を総合すると、次の事実を認めることができる。

昭和五〇年、植村恭夫慶応義塾大学医学部教授・眼科(元国立小児病院眼科医長)を主任研究者、塚原勇関西医科大学教授・眼科(現京都大学医学部教授)、永田誠医師(天理よろず相談所病院眼科部長)、馬嶋昭生名古屋市立大学医学部教授・眼科、大島健司福岡大学医学部助教授・眼科、森実秀子医師(国立小児病院眼科医長)、山内逸郎医師(国立岡山病院小児科医長)、奥山和男昭和大学医学部教授・小児科(元国立小児病院小児内科医長)らを分担研究者とする厚生省昭和四九年度未熟児網膜症研究班報告「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」が発表された。これは、前記オーエンスの分類発表後の検眼器具の進歩により、眼底検査が眼底周辺部まで及ぶようになるとともに、併せて検査精度の向上を見たことや、その後の本症研究の成果を踏まえたうえで、新たに、本症の診断及び治療の基準を作成したものである。

(一) 右報告は、本症活動期の診断基準及び臨床経過と瘢痕期の診断基準及び程度を次のとおり分類している。

(1)  活動期の診断基準及び臨床経過分類

I型(いわゆるinsidious typeといわれるもの)

1期(血管新生期)

網膜周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白に見える。

2期(境界線形成期)

周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には、血管の迂曲怒張を認める。

3期(硝子体内滲出と増殖期)

硝子体内への滲出と血管及びその支持組織の増殖が認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。

この3期は、前期、中期、後期に分ける意見があり、それによると、前期とは、ごくわずかな硝子体内への滲出、発芽を検眼鏡的に認めた時期であり、中期とは、明らかな硝子体への滲出、増殖性変化を認めた時期であり、後期とは、滲出性限局性剥離を認めた時期とするものである。

4期(網膜剥離期)

明らかな牽引性網膜剥離の認められる時期を網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から全周剥離まで、範囲にかかわらず、明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

II型(いわゆるrush type といわれるもの)

未熟性の強い眼に発症し、血管新生が耳側のみならず鼻側にも出現し、無血管領域はヘイジイ メデイア(hazy media)で隠されていることが多い。後極部の血管の迂曲怒張も初期より見られる。段階的な進行経過をたどることが少なく、比較的急速に網膜剥離へと進む。自然治癒傾向の少ない予後不良型のものをいう。

(2)  瘢痕期の診断基準及び程度分類

1度

周辺部に軽度の瘢痕性変化の見られるもので、視力は正常のものが大部分である。

2度

牽引乳頭を示すもので、黄斑部が健全な場合は視力は良好であるが、黄斑部に病変が及んでいる場合は種々の程度の視力障害を示す。

3度

網膜襞形成を示すもので、視力は〇・一以下となり、弱視または盲教育の対象となる。

4度

水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領より見られるもので、視力障害は最も高度であり、盲教育の対象となる。

(二) また、右報告は、本症の瘢痕病変に関して次のように述べている。

本症の瘢痕病変は、検眼鏡にも、病理学的にも特殊性を欠いており、活動期よりの経過を見ていない場合には、鑑別すべき多くの眼疾があり、本症による瘢痕と確定診断を下すことは困難である。例えば、白色瞳孔を示すに至つたものでは、網膜芽細胞腫、第一次硝子体過形成遺残、網膜異形成症候群、コーツ病などとの鑑別を必要とする。鑑別には、出生体重、在胎週数、酸素療法などの既往が参考とはなるが、確信を下すことは難しい。

三  本症の発症及び治癒等の状況

1  原本の存在及び成立につき争いのない甲第四四号証(昭和四五年一二月発行「日本新生児学会雑誌」六巻四号中の前記植村医師による「未熟児網膜症」と題する論文の写し)によれば、国立小児病院では、昭和四一年から昭和四四年までの四年間に同病院に入院した出生体重二五〇〇グラム以下の未熟児三七九名中三八名(一〇パーセント)に本症の発症を見、そのうち二例はオーエンスの活動期III 期まで、一例はオーエンスの活動期IV期まで、三例はオーエンスの活動期V期までそれぞれ進行し、その結果、二名(〇・五パーセント)にオーエンスの瘢痕III 度の瘢痕を、三名(〇・八パーセント)にオーエンスの瘢痕V度の瘢痕をそれぞれ残したことが認められる。

2  原本の存在及び成立につき争いのない乙第五二号証の二(昭和五一年三月発行「日本新生児学会雑誌」一二巻一号中の前記奥山教授、同森実医師らによる「未熟児保育の現状と発症要因」と題する論文の写し)によれば、次の事実を認めることができる。

昭和四二年一月から昭和五〇年六月までの間に同病院で保育した出生体重一五〇〇グラム以下の極小未熟児生存例一八三例中八例(四・四パーセント)が重症視力障害児となつた。

昭和四六年一月から昭和五〇年六月までの間に同病院で保育した出生体重二〇〇〇グラム以下の未熟児生存例三〇三例のうち四四例(一四・五パーセント)に厚生省未熟児網膜症研究班による本症の分類2期(以下、特に断らない限り、本症の活動期及び瘢痕期の分類は同分類によつたものである)以上の活動期の病変を見出したが、そのうちI型は三八例(一二・五パーセント)、II型は六例(二パーセント)であつた。

I型で3期まで進行したものは三四例あつたが、4期まで進行したものはなかつた。光凝固は、I型では、混合型の二期のもの一例と、三期の二例に対して行われたに過ぎない。そして、I型の本症例は、全例視力障害を残すことなく治癒した。

II型は六例中五例に光凝固が行われたが、すべてに3度ないし4度の瘢痕が残つた。

酸素療法との関係ではI型の本症例のうち七例は酸素を与えないのに発症したものであり、うち四例は3期まで進行したが、全例自然治癒した。酸素投与期間が九日以内のものはすべてI型で治癒した。II型は酸素投与期間の長いものに起り、全例一〇日以上の酸素投与を受けている。

I型の本症例群とII型の本症例群とを比較すると、無呼吸発作を起した症例の頻度、環境の平均最高酸素濃度、酸素投与期間に有意差が見られ、II型の群に高い結果が出た。

3  前掲乙第五五号証(昭和五一年九月発行「臨床生理」通巻三五号中の内藤達男医師(国立小児病院新生児科)による「酸素療法と未熟網膜症」と題する論文の写し)によれば、次の事実を認めることができる。

国立小児病院では、昭和四六年から昭和五〇年までの五年間に七名のII型の本症児が出たが(うち一名は生後一四八日目に死亡)、これらの児達は、一五四〇グラムの一名を除き、他はすべて出生体重が一〇〇〇グラム以下の低体重児であり、いずれも無呼吸発作、特発性呼吸窮迫症候群等の呼吸障害を有し、高濃度又は長期間の酸素投与を必要とした。

これらの児達に対する光凝固治療の結果は、一〇回の光凝固を実施して軽快した児も一名いるが、一名は光凝固を施行しないうちに失明し、三名は二回から七回に及ぶ光凝固を施行し、一時光凝固が効を奏したかに見えた例もあつたが、結局は三名とも失明し、一名は五回の光凝固を実施したが、片眼失明の結果に終つたというものであつた。

4(一)  原本の存在及び成立につき争いのない甲第七五号証(昭和四七年三月発行「臨床眼科」二六巻三号中の前記永田医師らによる「未熟児網膜症の光凝固による治療III 」と題する論文の写し)によれば、次の事実を認めることができる。

永田医師らは、昭和四一年八月から昭和四六年七月までの五年間に天理病院未熟児室に収容された未熟児生存例二一一例の眼底を検査し、そのうち三一例(一四・六九パーセント)に活動期病変を見出し、そのうちの六例(二・八四パーセント)はオーエンスの活動期III 期まで進行し、なお増悪の徴候を示したので、光凝固を施し、重症瘢痕例に至ることを防止した。

右六例はいずれも出生時体重一五〇〇グラム以下の酸素投与児であつた。

同医師は、右の間に、他院よりの紹介患者一九例に対しても光凝固を施し、光凝固の適期を過ぎていた二例を除き、すべて重症瘢痕例に至ることなく治癒させた。

これらの完治治癒例における光凝固の時期は生後三二日から八三日の間であつた。

(二)  原本の存在及び成立につき争いのない甲第三〇〇号証の三(昭和五一年一一月発行「日本眼科学会雑誌」八〇巻一一号中の前記永田医師による「未熟児網膜症光凝固治療の適応と限界」と題する論文の写し)によれば、次の事実を認めることができる。

天理病院では、昭和四一年から昭和五〇年までの間に同病院で保育した出生体重二五〇〇グラム以下の未熟児四一一例中、I型の八例と混合型の四例に光凝固を行つており、3度以上の重症瘢痕例に至つた例はない。

右光凝固例の全未熟児中に占める割合は二・九パーセントである。しかし、後記のとおり、永田医師の最近の見解では、確率的には、I型の右八例のうちの五分の四ないし六分の五までは光凝固を施さずとも重症瘢痕例にまで至ることなく自然治癒し、残りの五分の一ないし六分の一が光凝固を行わなかつたならば重症瘢痕例となつたであろうと考えられるというのであるから、右全未熟児中、放置したならば重症瘢痕例に至つたであろうと考えられるものの占める比率は一・三パーセントないし一・四パーセント程度となる。

右の間、同病院での出生体重一五〇〇グラム以下の生存極小未熟児の数は五五名であり、前記光凝固例はすべてこの五五名中に含まれている。そこで、光凝固例が生存極小未熟児中に占める割合は二一・八パーセントとなるが、放置したならば3度以上の重症瘢痕例に至つたであろうと考えられるものの占める比率は九・六パーセントないし一〇・三パーセント程度となる。

5  原本の存在及び成立につき争いのない甲第三〇〇号証の一(昭和五一年一一月発行「日本眼科学会雑誌」中の前記馬嶋教授による未熟児網膜症の「発生、進行因子の解析と未熟児成長後の眼底所見、視機能等について」と題する論文の写し)によれば、次の事実を認めることができる。

名古屋市立大学付属病院未熟児病棟では、昭和四五年一月から昭和五〇年六月までの間に、出生体重二五〇〇グラム以下の生存未熟児四七〇名を保育したが、このうち一五三名(三二・六パーセント)に本症の発症を見、うち八四名(一七・九パーセント)に2期以上の活動期病変を認めた。そのうち一例は混合型の本症であり、光凝固を一回施行し、2度中等度の瘢痕を残して治癒した。また、一例はII型の本症であり、光凝固を二回施行し、右眼は2度強度、左眼は3度の瘢痕を残して治癒した。その余の本症例はいずれもI型であり、そのうち、一九例(三一眼)に対して光凝固を行い、3度以上の瘢痕を残した例は出なかつた。

全未熟児中、光凝固例二一名の占める割合は四・五パーセントとやや高率であるが、これは、昭和四六年に光凝固を始めた頃、2期や3期の初期に光凝固を行つた例が二三眼あるためである。

本症の発生率、3期への進行率とも、有意差をもつて出生体重一五〇〇グラム以下、在胎三四週未満に多く(出生体重一二五〇グラム以下で五割近く、一二五一グラムないし一五〇〇グラムで一五・九パーセントが3期まで進行している)、これが一つの境界となつている。

酸素非投与例一五九例中一六例(一〇パーセント)に2期以上の本症の発生が見られ、うち七例(四・四ーセント)は3期まで進行しており、酸素投与が本症の唯一の発生、進行要因ではないことを示している。しかし、酸素非投与例で、3期の中期まで進行して光凝固を必要とした例は二例(一・三パーセント)のみであり、いずれも高ビリルビン血症治療のため大人の血液との交換輸血を実施したという特殊事情が存する。

酸素投与例では、三一一例中六八例(二一・九パーセント)に2期以上の本症の発症が見られ、うち三一例(一〇パーセント)が3期以上に進行し、うち一一例(三・五パーセント)が3期の中期以上にまで進行した。

酸素投与は、本症の発生、進行に対する影響を少なくするため必要最小限に止められているが、それでも、酸素投与例の方が、本症の発生率、3期への進行率とも明らかに高い。また、酸素投与例中では、3期への進行は、酸素投与期間七日以下と八日以上とでは明らかに有意差があり、総酸素投与量についても、3期への進行は投与量が多くなるにつれて増加してくる。

6  原本の存在及び成立につき争いのない甲第八五号証(昭和五〇年二月発行「日本眼科紀要」二六巻二号中の上原雅美医師(関西医科大学眼科学教室)、前記塚原教授らによる「未熟児網膜症の発症時期について」と題する論文の写し)によれば、次の事実を認めることができる。

上原医師らは、昭和四二年三月から昭和五〇年四月までの間に同大学付属病院未熟児センターに収容された未熟児五〇〇例につき眼底検査を行い、八二例(一六・四パーセント)一六〇眼に本症の発症を認めた。うち、酸素非投与例は一例である。

発症の時期は早いものは生後一四日目(眼底検査が可能となつた時点では既に発症していたものを含む)、遅いものは生後八六日目であつた。在胎週数に生後週数を加算すると、発症時期の頂点は三五週ないし四一週目にあり、一般に在胎週数の長いものほど生後早く、短いものほど遅く発症する傾向が見られた。

昭和四五年六月から光凝固法を採用し、右八二例中オーエンスの活動期III 期に入つてもなお増悪傾向を示す一八例(三・六パーセント)に同法を施行したが、施行時期で最も早いものは生後三四日目、最も遅いものは生後一四〇日目であつた。

7  原本の存在及び成立につき争いのない乙第六二号証(昭和四九年三月発行「市立札幌病院医誌」三四巻二号中の能戸清医師(同病院眼科)らによる「未熟児網膜症」と題する論文の写し)によれば、同病院では、昭和四六年から昭和四八年までの三年間に、未熟児二〇〇例中二四例(一二パーセント)に本症の発症を見、うち四例(二パーセント)が光凝固治療を必要とする段階にまで進行し、うち二例は失明したことが認められる。

8  原本の存在及び成立につき争いのない乙第五三号証〔昭和五一年一月発行「日本眼科学会雑誌」八〇巻一号中の前記森実医師による「未熟児網膜症第II型(激症型)の初期像及び臨床経過について」と題する論文の写し〕によれば、次の事実を認めることができる。

森実医師は、本症のII型を呈した出生体重六八五グラムから一〇五〇グラム(在胎週数二四週から二七週)の未熟児七例についてその眼底を詳しく観察した結果、本症の初期変化が受胎後週数(在胎週数に出生後週数を加えたもの)三〇週から三一週頃に現われ、その後一、二週間でII型の特徴を示すに至ることを認めた。また、光凝固法が開発される以前に同医師が経験したII型の六例では、すべてII型の特徴を示すに至つた後、二、三週間以内に網膜全剥離をきたし、白色瞳孔に至つた。

9  原本の存在及び成立につき争いのない乙第三八号証〔昭和五〇年二月発行「臨床眼科」二九巻二号中の幸塚悠一医師(松山赤十字病院眼科)らによる「酸素非投与未熟児の網膜症発生と双胎の影響について」と題する論文の写し〕によれば、同病院において昭和四六年一月から昭和四九年八月までの間に保育した生存未熟児一六八名中、酸素非投与例は六七例であり、そのうち二例にオーエンスの活動期II期の本症が見られ、一例に同III 期の初期まで進行した本症が見られたので、これらに対して光凝固を施したことが認められる。

また、原本の存在及び成立につき争いのない甲第八六号証(昭和四六年九月発行「日本眼科紀要」二二巻九号中の前記大島医師らによる「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題点」と題する論文の写し)によれば、九州大学医学部付属病院外来を受診した瘢痕期の本症児中、満期産で酸素非投与例の三例にオーエンスの瘢痕V度、同二例に同III ないしIV度の瘢痕(いずれも片眼のみ)が見られたことが認められる。

酸素非投与例で、本症が重症瘢痕を残す段階にまで進行し、又はその危険を避けるため光凝固を施した症例の我国における報告例としては、本件証拠上は、右各報告例及び前記名古屋市大病院における二例が認められるのみである。しかも、これらの報告例では、既に指摘したとおり、大人の血液との交換輸血が行われているとか、光凝固の時期が早期であつたため、自然治癒の可能性が十分に残されていたとか、該症例の臨床経過が報告者自身によつて確認されていないといつた特殊事情ないし問題点が存する。

四  本症の発生原因と本症の予防法及び治療法

前掲甲第二二号証の一、八、第二の一ないし三掲記の各書証、いずれも成立につき争いのない乙第一〇ないし第一三号証及び同第一六号証、いずれも原本の存在及び成立につき争いのない甲第五、第六号証、同第八ないし第一九号証、同第二八、第二九号証、同第三一ないし第三三号証、同第三五、第三六号証、同第三九号証、同第四一ないし第四三号証、同第四五号証、同第四七ないし第五八号証、同第六〇号証、同第六一号証の一、二、同第六二ないし第七四号証、同第七六ないし第八四号証、同第八八ないし第九二号証、同第九四号証、同第九六ないし第一〇一号証、同第一〇三、第一〇四号証、同第一〇六ないし第一〇九号証、同第一一一ないし第一二一号証、同第一二四号証、同第一二九号証の一、二、同第一三〇、第一三一号証、同第一三七号証、同第一三八号証の一、二、同第一三九号証の一、二、同第一四一号証の一、二、同第一四二ないし第一六四号証、同第一六六ないし第一六八号証、同第一七〇ないし第二〇五号証、同第二〇七ないし第二二二号証、同第二二五、第二二六号証、同第二二八号証、同第二三二号証、同第二三四、第二三五号証、同第二三七号証、同第二三九ないし第二四二号証、同第二四五ないし第二五〇号証、同第二五四号証、同第二五六ないし第二五八号証、同第二六〇号証、同第二六二号証、同第二六六、第二六七号証、同第二七〇号証、同第二七二ないし第二七六号証、同第二八五号証、同第二九〇号証、同第二九二、第二九三号証、同第二九六号証、同第二九八号証、同第三〇〇号証の二、乙第七、第八号証、同第一七ないし第二〇号証、同第二四号証、同第二八ないし第三五号証、同第三九ないし第四一号証、同第四四、第四五号証、同第四七、第四八号証、同第五〇、第五一号証、同第五四号証、同第五六号証、同第六〇、第六一号証、同第六三ないし第六六号証、同第六七号証の一、二及び同第六八号証の一、二、弁論の全趣旨からいずれも真正に成立したものと認められる甲第二二号証の二ないし七及び甲第二五号証、証人小野田敬治、同杉浦清治、同田川貞嗣及び同中尾亨の各証言、鑑定人田川貞嗣及び同中尾亨の各鑑定の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  本症の発生原因

未熟児の網膜血管の発育は、鼻側では胎生八か月、耳側では九か月になつて完成して鋸状縁に達する。

本症の本態がこのように未熟な網膜血管の異常な新生、増殖であることは、検眼鏡による眼底検査、患児の眼の病理解剖等により確認されている。

このような網膜血管の異常増殖が起る原因については、前記アシユトンらの動物実験、欧米での経験等から、発育途上の網膜血管は血中の高濃度の酸素によつて傷害されやすく、過剰な酸素が原因となつてアシユトンらが動物実験で明らかにしたような機序で本症が発生するのであろうと考えられており、特に異論を見ない。

しかし、血中の酸素濃度の指標となる血液の酸素分圧(PO2 値)がどこまで上昇すれば網膜の血管が傷害されるのか、個体差はどの程度あるのか、また、PO2 値の絶対値とは別にPO2 値の相対的急上昇も本症の発生原因となるのか、また、アシユトンらの動物実験等から考えられている本症の発生機序としては、過剰な酸素によつて網膜血管が収縮、閉塞することによつて網膜の無血管帯が無酸素ないし低酸素状態になるので、それに対する代償作用として、血管の新生、増殖が起ると考えられているわけであるが、それであるならば、呼吸障害による酸素摂取不足や貧血等によつて生ずる酸素欠乏も本症の原因となるのか、また、網膜の未熟、酸素以外にどのような因子が本症の発生、進行に関係するのかといつた問題については、まだ定説がない。

2  全身管理

本症の発生が未熟児の網膜の未熟性及び酸素投与と関係が深いということが知られるようになつて以来、未熟児の全身管理(呼吸の調整、保温、感染防止、栄養補給)は、未熟児の救命及び脳障害の予防のほか、本症予防の観点からも意義のあることと考えられるようになつた。その趣旨は、主として、未熟児の状態を最善に保つことが酸素投与機会及び投与酸素量の減少となつて、それだけ本症の発症要因を排除することができるということにある。また、低体温状態では児の酸素消費が増えるので、体温を適正に保つことが呼吸負担の軽減となるということや、より早い成熟の達成はそれだけ本症発症の危険がある期間を短縮させることになるといつたこともいわれている。

未熟児の全身管理のうち、本件で問題とされている事項に関しては、次のようなことが説かれている(酸素管理については後に改めて記す)。

(一) 未熟児の一般状態は急変することがあるので、絶えず注意深く監視していなければならない。特に注意すべき異常は、全身運動の変化、皮膚色の変化、呼吸状態、体温異常、下痢、出血、嘔吐、黄疸などである。

(二) 未熟児には、処置そのものが呼吸停止の誘因となることがあるので、処置時にはおだやかに取扱い、過度の処置は避けなければならない。

(三) 未熟児の生存のためには呼吸の確立が最も大切であり、呼吸の確立のためには、気道の確保及び適正な酸素投与が必要である。

(四) 未熟児は一般に低体温に傾きやすいが、低体温ではすべての組織機能の活力が低下し、呼吸循環の適応遅延をもたらし、チアノーゼや呼吸障害の誘因ともなりうるので、保温に注意し、湿度を高めにして水分の蒸発による熱損失を少なくして体温の維持につとめる必要がある。

体重一三五〇グラム程度の未熟児では、保育器に収容し、器内温度は当初はセ氏三二度から三四度程度とすると述べている文献が多いが、セ氏三〇度で始めるとする文献も見られる。児の体温はセ氏三六・五度から三七度の間になるよう調節するのがよいとされているが、セ氏三五度前後以上で安定している場合には、無理に体温を上げようとする必要はないとする文献も見られる。

未熟児の低体温の原因としては、まず第一には保温の不適切が考えられるが、そのほかにも、酸素不足、低血糖、脳障害等の原因が考えられる。

(五) 栄養補給の実際は、出生体重一三五〇グラム程度の未熟児に対しては、当初四八時間程度の飢餓時間をとつた後、留置カテーテルを使用して、五パーセントないし一〇パーセント程度のブドウ糖液三ミリリツトルを三時間おきに数回与えた後、乳汁に切り換え、嘔吐、逆流、腹部膨満の有無等を見ながら徐々に増量していくのであるが、食餌の開始や増量を急ぐことは禁物である。そして、吸啜及び嚥下反射が十分に発達すれば、哺乳びんから授乳することになるが、初めの頃のびん授乳の際には、児が哺乳拙劣のためチアノーゼ発作を起すことがあるので、注意を要する。

(六) 新生児の体重変動の一応の基準としてホルト(Holt)の体重曲線があるが、これによれば、出生体重一三五〇グラム程度の未熟児では、生後減少した体重が出生体重にまで回復するのに要する期間は一五日前後となつている。

市立札幌病院小児科未熟児室では、出生体重一二〇〇グラム(平均在胎週数三〇週)の児の体重が出生体重まで回復するのに要する期間は三、四週間程度であり、出生体重一五〇〇グラム(平均在胎週数三二週)の児では、生後三、四週間もたてば、出生体重をやや上廻る程度にまで回復している。

児の側に格別問題がないのに、児の出生体重への回復が遅れるときには、栄養補給の面で問題があることが多い。

(七) 未熟児も体重が二〇〇〇グラムを越えるようになると、ほぼ生命の危機は脱したと見てよく、体重が二五〇〇グラムを越えるようになると、生命力も強くなるので、退院の準備を行う。

3  我国における酸素投与法の推移

(一) 本症に関する欧米の動向は、既に昭和二〇年代の後半から逐次我国に紹介されてきており、我国において昭和三〇年代以降に出版された医学文献で、未熟児に対する酸素の投与について述べたものは、例外なく、酸素投与に伴う本症発症の危険について警告し、本症の発症予防のため、酸素の供給は必要最小限に止めるべきであるとしていた。そして、多くの文献では、酸素の過剰供給を避ける方法として、酸素濃度は普通四〇パーセント以下とし、一日数回酸素濃度計を用いて保育器内の酸素濃度を確認すること、チアノーゼ、呼吸障害を指標として酸素投与を行うのがよいと説いていた。

(二) 昭和三〇年代から昭和四〇年代の前半頃までは以上と合わせて、アメリカで一九五〇年代の前半頃に発表されたスゼウチツク(Szewczyk)やベドロシアン(Bedrossion)らの見解に従い、酸素の減量は徐々に行うのがよいとする見解が述べられていることが多く、この見解は、昭和三〇年代では多数、昭和四〇年代前半でもかなりあつた。

しかし、この見解は、昭和四〇年代の後半に入ると、衰退した。動脈血のPO2 値の測定が実験的ながらかなり行われるようになり、PO2 値は、呼吸状態の改善があれば、高濃度酸素下では急激に上昇することが明らかとなり、酸素を徐々に減ずるような方法では、未熟児を長時間酸素過剰の状態に置くことになることが判明してきたためである。

(三) 昭和四〇年代の前半には、前記植村医師をはじめ幾人かの眼科医達によつて、眼底検査の所見によつて酸素投与量を調節するという方法が提案されたことがある。これは、前記アメリカのパツツも提案したことのある方法で、眼底検査によつて網膜の細小血管の攣縮、狭細化の有無を検査し、この現象が認められたときには酸素の投与をできる限り控えるというものである。更にマンスコツト(Manschot)らの説に従い、酸素の減量中、右現象を認めたときには、酸素を元の供給状態に戻すのがよいとの説を述べる者もあつた。しかし、これらの方法は、多少実験的に試みられた後、昭和四〇年代の半ば過ぎに至つて、これを提案した眼科医達自身によつて、実用価値がないばかりでなく、理論的にも疑問が多いとして捨て去られた。

(四) 昭和四〇年代にはいると、未熟児に対する酸素療法について述べた文献中では、チアノーゼや呼吸障害を第一の指標として酸素投与を行うべきであるとの考え方が大勢となつた。そして、この方法は厳格化の傾向にあり、昭和四〇年代の半ば頃からは、酸素投与の適応となるチアノーゼは全身的なそれによるべきであるとか、多呼吸や陥没呼吸程度の呼吸障害があつても、チアノーゼが出ていないのであれば酸素濃度は二五パーセント程度でよいといつた説が有力に提唱されるようになつた。

(五) 酸素濃度を四〇パーセント以下に押えるということは、今日においても一応守るべき酸素投与の基準とされているが、昭和三〇年代の後半からは、前記欧米での酸素療法の転換に倣い、呼吸障害のため酸素濃度四〇パーセントでもチアノーゼの消えないような未熟児に対しては、もつと高濃度の酸素を与えることによつて救命及び脳性麻痺の防止をはかるべきであるとの考え方が強くなり、昭和四〇年代にはいると、未熟児に対する酸素投与の指針について説いた文献はほとんど右考え方を採用したうえで、未熟児の状態に応じた酸素濃度を得る方法として、理想としては動脈血のPO2 値測定による方法、実際的にはワーレイ、ガードナー法が良いと述べている。

そして、いずれの方法による場合でも、酸素の過剰投与とならないよう、特に高濃度の酸素を投与するときには、できるだけ頻回PO2 値を測定し、PO2 値が上がり過ぎるようであれば直ちに酸素を減量又は中止し、或いは時々試みに酸素濃度を下げてみて、チアノーゼや呼吸障害が出ないようであれば速やかに酸素を減量又は中止すべきことが注意指摘されていた。

4  未熟児保育の専門家達のルーテインとしての酸素投与に対する見解(昭和四〇年から昭和四六年頃の時点におけるもの)

チアノーゼも呼吸障害も示していない未熟児に無差別に生後一定期間常例的に酸素を投与すべきか否か(ルーテインとしての酸素投与の是非)の問題は、呼吸障害ないし低酸素症予防のためにはルーテインの酸素投与が望ましいが、ルーテインの酸素投与には本症発症の危険があることから、既に昭和三〇年代の前半から、検討を要する重要な問題であるとされていた〔例えば、昭和三四年六月発行「小児科最新の進歩第II集」中の馬場一雄医師(東京大学医学部小児科学教室、現日本大学医学部教授・小児科)による「未熟児の保育」の部分(甲第一四八号証)〕。

昭和三〇年代から昭和四〇年代の半ば頃までは、右問題を積極に解する見解が多かつたが、これらにしても、生後幾週間にもわたつて漫然と酸素を投与し続けることを是とするものではなく、未熟児が出生に伴う呼吸・循環機構の激変に適応するのを助けるため、出生後暫くの期間、低い濃度の酸素を投与するのがよいという程度のものであつた。

昭和四〇年から昭和四六年頃の時点において、我国の未熟児保育の専門家ないし権威が本症発症の危険とのかねあいでルーテインとしての酸素投与についてどのような指針を説いていたかを示すと、次のとおりである。

(一) 中村仁吉医師(賛育会病院小児科)は、昭和四一年四月発行の「臨床小児科全書」第一巻中において「第二節未熟児」の部分を担当し「すべての未熟児に対して酸素を補給しようという考えは適当でないと思われる。」「酸素供給の適応は、無呼吸、吸引で改善されないチアノーゼ、胸骨の陥没など呼吸障害である。」と述べている(甲第二八五号証)。

(二) 村田文也医師(都立母子保健院小児科)は、昭和四一年六月発行の「今日の治療指針」一九六六年版中において「未熟児の保育」の項目を担当し「呼吸状態が良好でチアノーゼも無い者には、酸素の補給は不要である。」と述べている(甲第一六七号証)。また、同医師は、昭和四五年一一月発行の「今日の小児治療指針」中において「低出生体重児の保育」の項目を担当し、右と同旨のことを述べている(甲第一八四号証)。

(三) 前記馬場教授は、昭和四一年一一月発行の「未熟児の保育」と題する単行本中において、未熟児の呼吸障害ないし呼吸機能不全に対する酸素療法の有用性を強調しながらも、ルーテインの酸素投与に関しては「どの未熟児にも無差別に酸素を与えるべきか否かという点については疑問もある。」「チアノーゼや呼吸困難の症状を示す未熟児に対しては酸素を供給する。しかし、いかに出生体重が小さくてもチアノーゼも呼吸障害もない未熟児には酸素を与える必要はない。」と述べている(甲第一六九号証)。

(四) 三谷茂医師(日本赤十字社産院)らは、昭和四三年四月発行の「産科と婦人科」三五巻四号中の「未熟児」と題する解説記事中において「生下時体重一・五kg以下」の「児には、通常、当初より酸素を与える。一・五kg~二・〇kgの児には、原則として一二時間酸素を与える。二・〇kg以上の児には当初より酸素を与えることはしない。無呼吸、チアノーゼ、その他、一般状態不良の児に対しては、体重の如何に拘らず酸素を与えることは勿論である。酸素濃度は」「一応三〇~三五%程度とし、必要に応じ四〇%迄増加する。之で尚チアノーゼが消失しない時は」「チアノーゼの消失する迄、次第に酸素濃度を上げる。そして、チアノーゼの消失を見たら出来る限り速やかに酸素濃度を下げ、必要最小限度の供給に止める。」と述べている(甲第三二号証)。

(五) 前記奥山医師は、昭和四三年五月発行の「今日の治療指針」一九六八年版中において「未熟児の保育」の項目を担当し「未熟児にルーテインに酸素投与を行つてはならない。」「酸素は全身性チアノーゼあるいは呼吸障害のある場合にのみ投与するB」と述べている(甲第一七七号証)。また、同医師は、昭和四五年五月発行の「今日の治療指針」一九七〇年版中において「新生児呼吸窮迫症候群」の項目を担当し「呼吸障害があるときにはチアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め」「酸素投与中は一日数回酸素濃度を下げてチアノーゼがあらわれるかどうかを観察し、チアノーゼが出現しなければできるだけ速やかに酸素を減量ないし中止する。呼吸障害の回復期に漫然と酸素投与を続けることは、水晶体後部線維増殖症の発生を招く危険が多いので慎まなければならない。」と述べている(甲第一八三号証)。

同医師は、このほか、昭和四五年一一月発行の「今日の小児診療1」中の「未熟児(水晶体後部線維増殖症)」の部分(甲第一八五号証)、昭和四六年一〇月発行の「季刊小児医学」四巻四号掲載の「水晶体後部線維増殖症」と題する論文(甲第四六号証)など、この頃発行された小児科関係の文献数点中でも以上と同旨のことを述べている。

(六) 高津忠夫東京大学医学部教授(現同大学医学部名誉教授)の監修になる昭和四四年一二月発行の「小児科治療指針」改訂六版中には「チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対しても総て酸素を供給すべきか否かに就ては議論がある。出生後暫くの期間における未熟児の血液酸素飽和度は低値を示し、また肺の毛細血管の発達が不充分なために、酸素の摂取が不良であることが予想され、一度無酸素症に陥れば、無酸素性脳障害や無酸素性出血を起こす可能性が考えられるので、ルーテインに酸素を行なうこともあるが、この場合には、酸素濃度は三〇%以下にとどめる。」との記載がある(乙第一二号証)。

そこで、右はルーテインの酸素投与期間としてどの程度の期間を考えているのであろうかとの疑問が生ずるが、この疑問に関しては、次の文献が参考になるように思われる。

同教授が小林隆医師と共同監修で昭和三七年六月に発行した単行本「新生児研究」中の「第四編新生児の保育」の部分を見ると、酸素供給の適応となるものはチアノーゼだけであり、肋骨や胸骨部の陥凹する程度の呼吸でもチアノーゼがなければ酸素療法の最初の適応ではないとするシルヴアーマン(Silverman )の説と並べて、未熟児の呼吸障害には酸素療法が有効なので、本症をおそれるのあまり必要な酸素供給をためらうことのないようにとの前記馬場医師の注意や、未熟児の肺拡張不全から考えて、高度未熟児には出生後暫時(出生体重一五〇〇グラム以下では七二時間、一五〇〇ないし二〇〇〇グラムまでは四八時間)酸素を供給しているとの安達寿夫東北大学医学部講師の報告を紹介している(甲第一〇一号証、なお、安達講師の当時の見解は乙第八号証、同第六〇、第六一号証に詳しい)。

高津名誉教授が同門の小林登教授と平山宗宏教授を新たに共同監修者として加え、前掲「小児科治療指針」の改訂第七版として昭和四九年七月に発行した「小児の治療保健指針」中には「呼吸障害やチアノーゼを有する未熟児には、酸素欠乏を救うために酸素投与が不可欠である。いつぽう、酸素の過剰投与は未熟児網膜症の原因となる。未熟児に対する酸素の供給は次の原則に従う。

1) 低出生体重児に対してルーテインに酸素投与を行つてはならない。酸素は全身のチアノーゼまたは呼吸障害がある場合にのみ投与する。」との記載がある(甲第二〇三号証)。

そこで、右参考文献から判断すると、前掲「小児科治療指針」がルーテインの酸素投与を否定しない「出生後暫くの期間」とは、右安達講師の示す期間を大巾に超過するような長期間を指すものではないと解される。

(七) 松尾保神戸大学医学部助教授・小児科は、昭和四五年一一月発行の「今日の小児治療指針」中において「新生児の保育」の項目を担当し、未熟児は成熟児に比し、血液酸素飽和度の上昇度が緩慢かつ不十分であるので「生後しばらくの間、生下時体重二、〇〇〇g以下の未熟児の場合、呼吸障害の有無にかかわらず酸素を供給すべきであり、通常、酸素は保育器内に入れ、酸素濃度は三五パーセント内外に調節する。」と述べ(乙第一一号証)、昭和四六年三月発行の「小児外科・内科」三巻三号中の「未熟児保育に関する最近の知見」と題する解説記事中でも同様のことを述べている(乙第六三号証)。

なお、松村忠樹関西医科大学教授・小児科は、昭和四四年五月発行の「今日の治療指針」一九六九年版中において「未熟児の保育」の項目を担当し、「酸素供給期間の目安としては、特に呼吸窮迫、チアノーゼなどのない未熟児でも、生下時体重一、五〇〇g以下のときは最短一週間、二、〇〇〇g以下三日間とする。」と述べている(甲第一八一号証)が、右文章全体、更に同教授や岩瀬師子同大学講師らの他の著述(発行年月順に甲第一七四号証、甲第二九八号証、甲第一六号証、甲第二七五号証、甲第一一五号証、甲第一八七号証、甲第一八八号証、甲第二一五号証)から判断すると、右はルーテインとしての酸素投与期間について述べたものではなく、一般に未熟児はチアノーゼや呼吸障害を起しやすく、出生直後にはチアノーゼや呼吸障害のない児でも暫くするうちにこれらを起して酸素投与の適応となることが多いので、酸素投与の一時投与の一時中止、再開がある例を含め、最終的に酸素投与を打ち切るまでには、少なくとも右程度の期間を要するのが通常であるという趣旨を述べていると解される。

5  眼底検査

眼底検査の必要性については、前記植村医師らが昭和四〇年頃から眼科、小児科、産科の各分野の文献に発表した本症に関する啓蒙記事中において盛んにこれを強調していた。しかし、昭和四〇年代前半までの時点では、眼底検査により本症の活動期病変を見出しても、確実な治療法がなく、眼底所見によつて酸素供給量を調節するということも実際上困難であつたため、眼底検査の実用的意義はほとんどなかつた。

眼底検査が実用的意義を有するに至つたのは、本症の進行を阻止しうる治療法として光凝固法が登場したことによつてである。

光凝固法の登場以来、眼底検査は生後三、四週間経過後頃から生後二、三か月頃まで一週間に一度くらいずつ定期的に行い、活動期病変が認められたときには、その状態に合わせてもつと頻回行い、オーエンスの活動期III 期に入つてもなお増悪傾向を示すものには光凝固を施すべきものとされた。

その後、我国における本症の臨床経過に関する研究の進展や光凝固による本症治療の経験の蓄積によつて、今日では、光凝固の適応は当初考えられていたよりは限定される傾向にあるが、本症に対する有効性の確認されている唯一の治療法として、光凝固法の意義を否定する見解はなく、同法によるか否かの見極めやその施行適期を知るために、眼底検査は依然重要な意義を有している。

6  薬物療法

我国では、昭和三〇年代の末頃から、本症発症の初期に副腎皮質ホルモン剤を投与すると治療効果が得られるとの説が松本和夫医師(弘前大学医学部眼科学教室)、前記植村医師らによつて唱えられ、この療法は、昭和四〇年代前半には、かなりの範囲の未熟児施設で試みられた。しかし、我国において行われている酸素投与法、未熟児保育の下では、本症は一旦発症しても、その大部分は自然治癒することが判明してき、従来、薬物投与による治癒例として発表されたものも、実は単なる自然治癒例でしかなかつたのではないかとの疑問が強まつてきた。

そして、今日では、副腎皮質ホルモン剤の投与は、その有効性が未だに確認されないし、その副作用のことを考えると、むしろ実施しない方がよいのではないかとの考え方も有力である。

7  光凝固法

(一) 光凝固法の登場

クセノンランプを光源とする光凝固装置とこれによる眼疾患の治療法は昭和二〇年代に西ドイツで開発され、昭和三〇年代前半には我国にも情報として入り始め、昭和三〇年代の終り頃から昭和四〇年代にかけて各地の病院に装置の導入が進み、昭和四六年頃には全国で数十台、昭和四八年頃には約一〇〇台にまで達した。

光凝固法を本症の治療に初めて応用したのは前記永田医師である。同医師は、同法が大人の網膜剥離疾患や血管増殖性疾患に効果があるところから、同じく血管増殖過程を経て網膜剥離に至る本症にも効果があるのではないかと考え、昭和四二年、オーエンスの活動期III 期に入り、なお増殖傾向を示す二例に同法を施行し、著効を認めた。同医師は、これを同年秋の第二一回日本臨床眼科学会で報告し、この報告は翌年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号中に論文として掲載された(甲第一二号証)。同医師は同年一〇月発行の「眼科」一〇巻一〇号、同年一二月発行の「日本新生児学会雑誌」四巻四号中にも同旨の発表を行つた(甲第一四号証、甲第二六七号証)。その後、同医師は、昭和四四年秋の第二三回臨床眼科学会で、前二例にその後行つた四実施例を追加した報告を行い、光凝固法の有効性を強調するとともに同法実施の適期について論じ、これは昭和四五年五月発行の「臨床眼科」二四巻五号中に論文として掲載された(甲第一八号証)。同医師は同年一一月発行の同誌同巻一一号中にも同旨の記事を発表するとともに(甲第一九号証)、同年一一月発行の「今日の小児治療指針」中で本症の項目を担当し、適期に光凝固を行えば、本症の進行を確実に停止させ、患児を失明させなくてもすむようになつたので、未熟児保育担当医と眼科医との緊密な協力体制、光凝固装置のある病院との連絡関係を確立する必要があることを指摘し(甲第一八四号証)、この頃から小児科医、産科医、眼科医達に光凝固法の採用を積極的に呼びかけ始めた。同医師は昭和四六年三月に開催された日本新生児学会でも、「天理病院における本症の対策と予後」と題する研究発表を行い、その中で、これまでに一五例に対して光凝固を施し、きわめて良好な治療成績を得た旨報告し〔同年六月発行「日本新生児学会雑誌」七巻二号掲載(甲第一一九号証)〕また、同年秋の第二五回日本臨床眼科学会では「未熟児網膜症の光凝固による治療(III )」と題して光凝固治療適否の判定と治療実施時期判定の問題を中心に講演するとともに、このような治療法に関する知識の普及と眼科医による治療技術等習得の必要性を強調した〔昭和四七年三月発行「臨床眼科」二六巻三号掲載(甲第七五号証)〕。

その後、永田医師は、昭和五一年五月に開催された日本眼科学会で「未熟児網膜症光凝固治療の適応と限界」と題する研究報告を行い、天理病院での光凝固九年を総括して右演題に対する同医師の最近の考え方を明らかにした。

ここで、同医師は、I型の本症に対し、3期の中期まで進行してなお自然治癒傾向を示さないものには光凝固を行うという従来の適応基準では、光凝固の絶対の適応である一例のために、放置しても重症瘢痕を残すことなく自然治癒する四例ないし五例にまで光凝固を施す結果となる公算があること、しかし、そうであるからといつて、光凝固の時期を3期の後期まで遅らせていたのでは、五、六例のうちの一例に3度以上の重症瘢痕を残す可能性があり、少なくとも2度の瘢痕を残し、中等度以上の近視、乱視に至る確率が高くなるので、光凝固の時期を3期の後期まで遅らせるのは疑問であること、また、治療後一年ないし九年の遠隔成績では、I型に対する光凝固の瘢痕が視機能に悪影響を及ぼしているということはないこと、網膜剥離などの後期合併症の関係では、光凝固瘢痕の方が自然治癒瘢痕よりも有利ではないかと考えられる徴候があることとの見解を明らかにし、前記従来の光凝固適応基準を維持する旨述べた。また、同医師は、II型の本症及び混合型の本症には光凝固の絶対的適応があり、適期(2期中期ないし3期の初期)に徹底した治療を行えば、予後は決して悲観的なものではないが、患児の一般状態が悪く高濃度の酸素投与が長期間行われたような場合には、光凝固によつても救い難いこともありうる旨述べた。

(二) 光凝固法の追試状況

永田医師の示した本症の進行を光凝固によつて阻止するという着想とその成果はかなりの数の眼科医達の注目するところとなり、昭和四四年から昭和四六年頃にかけて全国各地のいくつかの病院でいつせいに追試が試みられた(国立大村病院の本田医師、国立福岡病院、九大付属病院の前記大島医師ら、徳島大学医学部付属病院、鳥取大学医学部付属病院の瀬戸川医師ら、県立広島病院の野間医師ら、兵庫県立こども病院の田渕医師ら、関西医大の前記塚原教授及び上原医師ら、名古屋鉄道病院の田辺医師及び池間医師、名古屋市大付属病院の松原医師、前記馬嶋教授ら、松戸市民病院の丹羽医師ら、東北大学医学部付属病院の斎藤医師らなど)。

そして、追試結果の幾つかは昭和四六年頃から発表され始めたが、それらはいずれも、光凝固法には明らかに本症の進行阻止効果が認められるとするものばかりであつた。特に、前記上原医師及び塚原教授らが、昭和四五年秋の第二四回臨床眼科学会において「未熟児網膜症の急速な増悪と光凝固」と題して五例の本症未熟児に光凝固を行つた追試結果を発表し、そこで、光凝固法の有効性を承認し、これが昭和四六年四月発行の「臨床眼科」二五巻四号誌上に論文として掲載されたこと(甲第七二号証)と、前記大島医師らが昭和四六年九月発行の「日本眼科紀要」二二巻九号誌上に発表した「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題点」と題する論文中において、光凝固法を二三例に対して施行し、オーエンスの活動期III 期に施行した二一名に著効(片眼が活動期III 期、他眼がIV期で施行した一例では前者が著効、後者が不良で、III 期での施行例はこの一例を含めると二二例)の結果を得た旨の報告を行つたこと(甲第八六号証)の影響は大きかつた。これらの論文は前掲各永田論文とともに本症に関心を持つ眼科医や小児科医達の注目を集め、光凝固法の存在とその有効性に関する知見が以後急速に眼科医、小児科医、産科医達の間に浸透していく契機となつた。

北海道でも杉浦清治北海道大学医学部教授・眼科は、昭和四六年頃には、適当な症例があれば本症の治療に光凝固法を試みてみようとの考えを持ち、同年一一月に一例に対して実施した。また、田川貞嗣札幌医科大学教授・眼科も、同年夏頃には光凝固法の有効性を承認する考え方に傾いていた。また、函館の開業眼科医である江口甲一郎医師は昭和四七年三月に光凝固法による本症治療の最初の試みを行つた。

(三) 昭和四六年秋の時点における光凝固法に関する知見の普及程度

昭和四六年秋頃の時点では、本症の治療法として光凝固法が存在することを示す文献は、眼科関係では、眼科医向け専門雑誌を中心に、前記永田医師の発表したものや他の眼科医達の追試論文及び追試状況を示す記事等が一〇数点を下らず(甲第一二号証、同第一四号証、同第一八、第一九号証、同第七二、第七三号証、同第八六号証、同第二〇七ないし同第二一一号証、同第二二五号証、同第二三〇号証)、小児科関係でも、小児科医向け専門雑誌を中心に前記植村医師や前記奥山医師らによる啓蒙記事が一〇点近くを下らず(甲第四五ないし第四七号証、同第一一五、第一一六号証、同第一八四号証、同第一八八号証、同第二二九号証、同第二三二号証)、小児科と産科の中間領域の文献ではないかと考えられる「日本新生児学会雑誌」上などにも数点を下らない数のものがあつた(甲第四四号証、同第一一九号証、同第二二三号証、同第二六七号証)。また、「今日の治療指針」の如き医師向け総合誌上にも、永田医師、植村医師らによるものなど数点を下らないものがあつた(甲第一一七号証、同第一二一号証、同第一八三号証、同第二二六号証)。したがつて、眼科医及び小児科医であれば、昭和四六年秋の時点ともなれば、少しく自己の専門分野の雑誌を中心に文献を調査すれば、比較的容易に本症の治療法として光凝固法があり、その有効性が評価されつつあるとの認識に到達しうる状況にあつた。

しかし、専ら産科医向けの文献では、昭和四六年秋の時点では、まだ光凝固法の存在を紹介したものは少なく、本件証拠として提出されたものでは、昭和四三年一一月発行「産婦人科の実際」一七巻一一号中の植村医師による「新生児眼疾患」と題する記述(甲第三三号証)、昭和四五年一二月発行の「現代産科婦人科学大系 二〇A新生児学総論」中の「IV診断(診察法)7、眼底検査」の部分(甲第二二八号証)及び昭和四六年一一月発行の「現代産科婦人科学大系 二〇B新生児学各論」中の本症に関する植村医師の記述(甲第三四号証)中に、各一言、光凝固法の存在することが記載されているのみである。しかも、これらでは、いずれもその有効性についてまでは言及されていない。

(四) 光凝固法の実施時期

光凝固法によつて本症を治療する場合には、その実施時期がきわめて重要な意義を有する。

(1)  永田医師の実施時期についての考え方は前記のとおりであり、同医師がその考え方に従つて光凝固を実施した結果では、実施時期の分布は、最初の六例では、生後五三日目から八五日目の間(但し、八五日目の例ではオーエンスの活動期の分類IV期で実施)にあり〔昭和四五年五月発行「臨床眼科」二四巻五号中の「未熟児網膜症の光凝固による治療II」と題する論文の写し(甲第一八号証)〕、次の一七例(一九例中、特殊事情により一一一日目となつた例と無効であつた九一日目の例を除く)では、三二日目から八三日目の間にあつた〔昭和四七年三月発行「臨床眼科」二六巻三号中の「未熟児網膜症の光凝固による治療(III )」と題する論文の写し(甲第七五号証)〕。

(2)  前記上原医師及び塚原教授らは、オーエンスの活動期の分類III 期に入つても増悪傾向を示すものに速やかに光凝固を行うという方針で、昭和四五年六月から昭和四九年四月までの間に関西医大付属病院未熟児センターで保育した未熟児中、一八例に光凝固を実施したところ、実施時期の分布は、生後週数五週目から二〇週目までに及んだが、そのうち、二例以上の実施例のある週は、六週目の四例、八週目の二例、九週目の四例、一三週目の二例であつた〔昭和五〇年二月発行「日本眼科紀要」二六巻二号中の「未熟児網膜症の発症時期について」と題する論文の写し(甲第八五号証)〕。

(3)  前記大島医師らは、昭和四五年中に九大付属病院と国立福岡中央病院において、オーエンスの活動期のIII 期の初期頃に光凝固を行うという方針で本症の光凝固治療にあたつたところ、光凝固の実施時期は大体生後六週ないし一〇週頃になつた〔昭和四六年九月発行「日本眼科紀要」二二巻九号中の「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題点」と題する論文の写し(甲第八六号証)〕。

(五) 光凝固法に対する評価

本症を光凝固法によつて治療するということに対しては、この治療法が登場した当初から、このような医的侵襲を発育過程にある未熟な網膜に加えることに対する長期的予後の面での危惧が表明されてきており、今日に至つても、なお右危惧が全く解消されてしまつたわけではない。

また、本症の発生、治癒に関する統計的考察や臨床経過に関する研究の進展に伴い、I型については、酸素投与に十分な注意が払われるならば、そのほとんどは、重症瘢痕例にまで至ることなく自然治癒することが判明してきたことから、I型に対する光凝固治療はその多くが、不必要で、児に前記危惧を担わせる不当な過剰治療となつているのではないかとの批判が強くなつてきている。

ところで、これらの危惧ないし疑問に対する永田医師の見解は前記のとおりである。

一方、前記馬嶋教授は、昭和四七年六月からは、3期の中期に入つてなお進行の傾向が認められる場合には、まず片眼のみ凝固して様子を見、非凝固眼の病勢が更に進行して3期の晩期に向かうようであれば、非凝固眼にも光凝固を行う旨述べている〔昭和五一年三月発行「日本新生児学会雑誌」一二巻一号中の「未熟児網膜症の発症機転と臨床」と題する論文の写し(乙第五二号証の三)、同年一一月発行「日本眼科学会雑誌」八〇巻一一号中の未熟児網膜症の「発生、進行因子の解析と未熟児成長後の眼底所見、視機能等について」と題する論文の写し(甲第三〇〇号証の一)〕。

次に、II型に対する光凝固治療の成績報告は少なく、有効例と無効例の報告が少数あるだけで、ある程度の数の治療経験をもとに、光凝固の時期、部位、方法、有効性の程度等について本格的に論じた文献はまだ見当らず、II型の本症に対する光凝固治療の有効性の程度についての評価はまちまちであるが、II型の進行阻止がI型ほど容易でない点では一致している。

このように、本症の光凝固治療に対しては批判や未だ解消されていない疑問が残されており、その評価も今日に至るも未だ完全に定まつたとはいい難い。

しかし、本症に対する光凝固治療について論じた文献はすべて、進行する本症に対する光凝固治療の進行阻止効果を認めており、前記の批判や疑念も光凝固治療の適応症例の選別や治療時期の選択の範囲内での疑義にとどまつており、本症治療のため光凝固を行うこと自体を全く否定する見解は見当らない。

8  昭和四〇年から昭和四六年の時点における産科関係文献に見る本症

右の間に発行された、もつぱら産婦人科医向け文献(主として産婦人科医向け医学雑誌)で未熟児の保育ないし本症に関する記述のあるものや未熟児の保育を扱う小児科医や産婦人科医向けに、これらについて述べた文献は、産婦人科医がこれらに関する知見を得るのに不自由しない程度にあり、これらの中では必ず酸素投与による本症発症の危険について言及がなされており、本症の発症頻度につき我国における統計的数値によつて説明し、酸素濃度が四〇パーセント以下であるからといつて安心できない旨警告しているものも見られた(但し、右期間以前でも、酸素濃度が四〇パーセント以下であれば安心であるなどと述べている文献は見当らない)。

本症の臨床経過については、前記オーエンスの分類によつて、これを説明している文献が多かつた。

酸素投与については、これは、出生後暫くの間における未熟児の呼吸の確立を助けたり、呼吸障害やチアノーゼを示す児に施す治療法であり、本症発症の危険を避けるため、酸素の投与量を生命及び脳を傷害しない必要最小限度に制限すべき点では一致しており、児に必要な酸素濃度を求める方法としてワーレイ、ガードナー法が勧められることが多かつたが、酸素の減量の仕方では、既述の日赤産院の三谷医師らの如く、チアノーゼや呼吸障害の有無を指標とし、これらが消えたら速やかに酸素を減量又は中止すべきであるとしているものが見られる一方、他方では、前記スゼウチツクやベドロシアンらによる相対的酸素欠乏説の影響を受けて、酸素は徐徐に減ずるのがよい旨述べている文献もあつた。

昭和四六年秋頃の時点では、産婦人科医ら向け文献中には、本症の治療法として光凝固法があることについて言及しているものは、まだほとんどなかつた。

第三医師崎山の過失

一  医師崎山の有すべき知見等の水準

1  公知のとおり、我国においては、医師は、それぞれ、内科、小児科、外科、産婦人科、眼科等の診療科目の中から、その志望に従つて自己の標榜する診療科目を選択し、その診療科目の範囲内においてのみ診療行為を行うという事実上の専門医制が一般的に行われている。そして、このもとでは、医師は、自己の標榜する診療科目の範囲内では不断に新しい知識や診療技術の吸収、習得に努めているが、それ以外の分野に関しては、実際に臨床経験を持つこともほとんどなく、専門医としての水準的知見や診療技術を有しないのがむしろ通常であるといわれている。

ところで、このような制度ないし慣行は、根本的には、現代における医学、医療の高度化に由来するものであつて、個人としての医師の学習能力の限界等からくるやむをえざる帰結であると同時に、それによつて、医学、医療の更なる進歩、向上がはかられ、医療の効率化、医療経済がもたらされており、相当の必然性と合理性とを有している。

そこで、右事実上の専門医制のもとで、一定の診療科目を標榜する医師の医療行為につき過失の有無を判断するにあたつては、右制度の存在を前提として、当該医療行為が行われた時点における専門医たる通常の医師の有すべき医学水準が一応の判断基準となるものというべきである。そして、医師は、自己の専門分野の疾病ないし診療方法に関しては、専門医としての水準的知見及び診療技術を有すべきことが求められるが、その専門外の分野の疾病ないし診療方法に関しては、専門医の水準での知見及び診療技術を有しないことがあつても、通常はやむをえないというべきである。しかし、自己の標榜する診療科目以外の分野の疾病ないし診療方法であつても、それが自己の標榜する診療科目と関連性が深い等の理由から、経常的に専門外の診療科目に属する該疾病ないし診療方法につき診療を行う場合には、これを専門医の水準において行うべきは当然であり、また、経常的とまでは至らずとも、僻地で、患者の状態等に照らし、転医可能な範囲内には適当な専門医がいない等の事情から、しばしば自己の専門外の一定分野につき診療を行うことがある医師は、その頻度と必要性とに応じ、当該分野に属する知見及び診療技術の獲得に努めるべき義務があるものというべきである。

2  前記第二掲記の医学文献たる書証を概観すると、未熟児の保育は本来は小児科医の担当分野とされており、未熟児の保育やチアノーゼ、呼吸障害を呈する児に対する酸素療法等についての著述の執筆者のほとんどは小児科医である。

しかし、実際には、未熟児が産婦人科医によつて保育されることも少なくなく、前掲甲第六六号証によれば、昭和四二年の時点では、全国的には、未熟児はまだ半分まで小児科医の手に渡つていないといわれていたことが、前掲甲第一三〇号証によれば、昭和四七年一月の時点における全国各地の国立病院においてすら、数施設では、産婦人科医が未熟児の保育を担当していたことがそれぞれ認められ、また、証人杉浦の証言によれば、北海道大学では、現在でも、未熟児を含む新生児の保育は産婦人科の担当とされていることが認められる。

そして、先に認定したとおり、産婦人科医向けの医学雑誌や全集物の類中には、未熟児の保育に関する記述が見受けられ、未熟児保育にあたる小児科医及び産婦人科医を対象に保育指針を解説した単行本類も少なからず出版されている。

そこで、このような現状のもとでは、未熟児保育を、産婦人科医には必要な知見等を備えるべきことが要求されない産婦人科医の専門外の事項であるということ自体からして既に問題であり、まして産婦人科診療の傍らとはいえ、常例的に未熟児保育にあたる産婦人科医は、少なくとも、未熟児保育にあたる産婦人科医等向け文献上に通常記載されている程度の知見を有し、それに従つた未熟児保育をなすべき義務があるものといわなければならない。

3  医師崎山は産婦人科医ではあるが、同医師の勤務していた被告病院の近隣には未熟児保育を専門的に行う医師がいなかつたところから、被告病院で未熟児が出生した場合には、もつぱら同医師がその未熟児を保育するのを常としていたのであるから、同医師としては、未熟児保育に関する知見の獲得に努め、原告雅人の保育にあたつては、少なくとも、当時出版されていた文献中、未熟児保育にあたる産婦人科医等向けのものに通常記載されている程度の知見を有し、具体的診療の場に存する種々の制約の許す限り、右知見に従つた診療保育をなすべき義務があつたものといわなければならない。

二  全身管理の懈怠の主張について

1  原告雅人の出生体重は一三五〇グラムで、出生後、一旦減少した同原告の体重が出生体重にまで回復したのは生後三一日目であつた。

ホルトの体重曲線によれば、出生体重一三五〇グラム程度の未熟児の体重が、生後一旦減少した後、出生体重にまで回復するのに要する期間は一五日前後である。また、市立札幌病院小児科未熟児室では、右期間は、出生体重一二〇〇グラム(在胎週数三〇週)の児で、三、四週間程度である。

してみると、原告雅人の体重の回復は、ホルトの体重曲線を基準にすれば、相当遅れたことになり、市立札幌病院での実情に照らしても、遅れた方といえるので、同原告に対する栄養補給が適切に行われなかつたのではないかとか、もし、そうでないとするならば、他に、体重の順調な回復を妨げるような何か特別の事情があつたのであろうかといつた疑問が生じないではない。

しかし、一方、未熟児保育の指針を説いた文献中では、未熟児に対してミルクを与えるにあたつては、過少よりも過多をより警戒すべき旨記載されており、また、前記認定にかかる原告雅人に対する食餌投与の経過を見ても、食餌に対する配慮の跡が窺われないではなく、証人中尾の証言によれば、同原告に対する食餌の量及び回数は、それ自体としては特に問題はないことが認められるのである。そして、同原告の体重は、当初の出産予定日である一二月七日には三〇〇〇グラムにまで達しているのであるから、食餌量と原告雅人の状態との対応関係は証拠上不明であり、出生体重への回復が遅れたきらいはあるものの、最終的には、栄養補給の面では特に問題はなかつた結果が出ているというべきである。

2  原告雅人においては、出生後、低体温の状態が長く続き、同原告の体温が三四度台を示さなくなるまでには二九日を要している。

当時の医学文献には、未熟児は低体温になりがちなので、原告雅人程度の出生体重の未熟児に対しては、保育器内の温度を高くして体温の維持に努めるべきことが指摘されていた。

そこで、原告雅人の保育では、保温面でも問題があつたのではないかとの疑問が生じないではないが、この点に関しては、証人崎山の、保育器内の温度は三〇度、湿度は八〇パーセントとしたとの供述があるのみで、それ以上に事態を明らかにしうる証拠はない。

3  このように、原告雅人の全身管理(酸素管理については後述)に関しては、原告らの指摘するとおり、栄養補給の面でも、保温の面でも疑問の存することは否定できないが、このような順調とはいえない結果が、主として医師崎山の全身管理上の不適切に由来するものであつて、原告雅人自身に由来するものではないことを認めるに足りる証拠はない。また、仮に、このような結果自体から、或る程度、同医師の同原告保育上の不適切さを窺うことができるとしても、既述のとおり、全身管理と本症の発症、増悪との因果関係は、間接的で漠然としたものでしかないから、右全身管理上の不適切さと本症による原告雅人の失明の結果から、直ちに両者間に原因、結果の関係があると結論づけることはできず、他に右因果関係を認めるに足りる証拠はない。

したがつて、医師崎山に原告雅人の全身管理上の懈怠があり、これによつて同原告が失明したとの原告らの主張は採用できない。

三  酸素管理上の懈怠の主張について

1  原告雅人の失明と酸素投与との因果関係

在胎週数三〇週、出生体重一三五〇グラムといつた原告雅人程度の未熟児では、網膜血管は発達の途上にあつて未完成であり、このような未熟児が酸素投与を受けることによつて本症を発し、失明に至ることがあることは、欧米における本症の歴史、アシユトンらによる動物実験の結果、我国における本症の発生原因に関する統計的考察や臨床経過に関する研究等から明らかである。特に、原告雅人の如き極小未熟児が大量、長期間に及ぶ酸素投与を受けたときには、本症が3期以上にまで進行する率が高まることが統計的に明らかにされている。

他方、酸素以外にも本症の発生、進行の要因となる因子の存在する可能性は否定されておらず、酵素を投与しない未熟児にも本症の発症を見ることがあることは事実であるが、そのほとんどは自然治癒し、失明にまで至ることはまずない(なるほど、前記のとおり、我国にも、酸素非投与例で自然治癒しなかつた症例の報告がないわけではないが、これらについては、大人の血液との交換輸血が行われたという特殊事情が存するとか、光凝固の時期が早期であつたため、自然治癒の可能性が十分に残されていたとか、該症例の臨床経過が報告者自身によつて確認されていないといつた特殊事情ないし問題点がいずれについても存する)。

また、本症による重度の瘢痕例と同様の眼状態を呈する眼疾患が全くないわけではないが、出生体重、在胎週数、酸素療法等の既往が本症瘢痕と他の眼疾による瘢痕とを鑑別するための基準となりうる。

してみると、本症による重症瘢痕例様の眼状態を呈する児が未熟児として出生し、大量、長期間に及ぶ酸素投与を受けた既往を有するときには、その児は、酸素投与によつて本症の増悪を見、本症によつてそのような眼状態に至つたものと一応推定することができ、その児について酸素投与以外の特定の要因が存在し、それによつて本症の増悪を見た蓋然性やその眼状態が本症以外の特定の眼疾患によるものである蓋然性を推測させる具体的事実の証明等の反証がない限り、右に推定したとおり推認するのが相当である。

ところで、原告雅人が右推定を受けるに足りる要件をすべて具備していることは、同原告が失明するに至つた経過から明らかであり、一方、前示の如き反証は全く存しないから、同原告は医師崎山の酸素投与によつて本症の増悪を見、本症によつて失明したものと推認することができる。

2  医師崎山の有すべき酸素投与に関する医学知見

(一) 原告雅人出生当時頃出版されていた文献中、産婦人科医を含む未熟児保育にあたる医師向けの文献で、酸素管理ないし本症について述べたものは、すべて、本症の予防上酸素管理が重要な意義を有することを強調しており、酸素投与の抽象的指針として、酸素投与を行う場合には常に本症発症の危険があることに留意し、酸素は救命及び脳障害防止のために必要な最小限度とすべき旨述べており、具体的指針として、未熟児に対する酸素投与は、チアノーゼ、呼吸障害を指標として行い、これらがなくなれば、速やかに、又は徐徐に酸素を減量ないし中止すべきこと、出生体重一三五〇グラム程度の未熟児に対しては、呼吸循環の適応を助けるため、出生後暫くの間、ルーテインに酸素投与を行うこともあるが、その場合には、その期間はできるだけ短期間にとどめ、酸素濃度も三、四〇パーセント以下とすべき旨述べていた。このほか、ルーテインの酸素投与を否定する見解も有力に述べられていたが、酸素濃度が四〇パーセント以下であれば安心であるというような説を説いた文献は見当らない。

(二) 当時述べられていた酸素投与に関する右指針は、その後、酸素を徐徐に減ずるという方法がだんだんといわれなくなりつつあることと、ルーテインの酸素投与を否定する見解がより有力になりつつあるように見えることとを除けば、今日でも維持されている。のみならず、酸素管理を十分に行つた場合には、児の状態が特に悪く、そのため高濃度或いは長期間の酸素投与を余儀なくされたというような特別の例を除けば、本症の重症的にまで至ることはほとんどないということが更に経験的に確かめられるとともに、薬物療法にはほとんど期待が持てず、光凝固治療にも一定の限界があることが判明してくるに及び、酸素管理の意義はいよいよ重視されつつある。

(三) 先に、医師崎山の有すべき医学水準中で判示したとおり、同医師は、原告雅人の保育にあたつては、少なくとも、当時出版されていた文献中、未熟児保育にあたる産婦人科医ら向け文献上に通常記載されている程度の知見を有し、これに従つた診療保育をなすべき義務を負つていたのであるから、同医師としては、原告雅人に対して酸素を投与するにあたつては、前記(一)の酸素投与に関する指針に従うべき注意義務があつたというべきである。

なお、当時は、酸素の中止方法、出生後暫くの間のルーテインの酸素投与の非については学説の対立があり、それを反映して、右酸素投与の指針中にも、右二点に関して分裂が見られるが、当時は、それらのうちのいずれが確立しているともいえない段階であつたから、医師崎山がいずれの方法を採用するかは同医師の裁量に属した事柄というべきである。

3  医師崎山の酸素投与上の過失

(一) 原告雅人が、医師崎山による、通じて三四日間、合計三万七〇〇〇リツトルをいずれも下らない大量かつ長期間に及ぶ酸素投与によつて本症に罹患し、本症によつて失明したものであることは前記認定のとおりである。

(二) ところで、医師崎山による酸素投与のうち、酸素流量が一分間二、三リツトルで始まつた原告雅人の出生後暫くの間の酸素投与は、右流量から換算される酸素濃度が四〇パーセント以下に止まつていること、昭和四〇年代前半頃までは、生後暫くの間のルーテインの酸素投与を肯定する見解の方が多数を占めていたことからして、その間における同原告の呼吸状態、チアノーゼの有無等を問うまでもなく、同医師の裁量に属する医療行為として、これを是認することができる。

しかし、当時でも、生後暫くの間経過後もルーテインに酸素を投与し続けることを是とする見解はなく、そのような行為は、その必要がないばかりでなく、本症発症、進行の危険が高いとして戒められていた。ところが、先に認定した原告雅人に対する酸素投与期間、酸素ボンベの取換状況及びこれらから計算される平均酸素流量、同原告の診療録の記載等から推すと、医師崎山は、同原告の生後、二、三日目くらい以内から生後二九日目の一〇月二六日頃まで、同原告の状態の悪化を見た際に一時的に酸素の量を増量したときを除き、毎分平均一リツトルから〇・五リツトル程度の酸素をルーテインに供給し続けたものと推定され、したがつて、右の間における同医師の同原告に対する酸素投与は、本症増悪の危険性の高い過剰な酸素投与であつた疑いが強い。

また、医師崎山は、原告雅人の生後四二日目の一一月八日から酸素投与を中止する同月一二日までの五日間に、同原告に対し約九〇〇〇リツトルの酸素を投与しているが、この投与量は、出生当初の五日間の投与量よりも大量であるところ、この時期には、同原告の体重は一六二〇グラムから一七六〇グラムに達し、一一月九日には自力哺乳を始め、前記のとおり、同原告の診療録中には「経過非常によい」とか「特記所見なし」の記載が見られる時期であり、かつ、酸素投与を中止する直前でもあるのに、果してこのような大量の酸素投与を行う必要があつたのかどうか、大いに疑問の存するところである。

このように、原告雅人に対する酸素投与に関しては、同原告の状態に照らし、不必要で、過剰な投与が行われたのではないかとの疑問を容れる余地があるわけであるが、これに対し、同原告に酸素投与の適応があつたことを示す事実としては、前記のとおり、同原告が出生した当初の二、三日間の状態が特に悪かつたこと、右期間を含む同原告の入院期間中に何回か全身チアノーゼの発現があり、落陽現象が認められたこともあるという程度の事実が認められるのみであり、右以上に同原告に酸素投与の適応状態があつたことを具体的に認めるに足りる証拠はなく、この程度の事実のみでは、到底、本件酸素投与に関して存する前記疑問を解消することはできない。また、僻地の病院で多忙な日日を送る医師が、酸素投与期間中、未熟児にどのような酸素投与の適応状態があつたかの記録を残していなかつたとしてもやむをえない面もあるので、それに替るものとして、せめて医師崎山が原告雅人に酸素を投与するにあたつてとつた酸素投与の方針でも明らかになれば、前記同原告に対する酸素投与が、前記医師崎山の従うべき酸素投与の指針に則つたものであつたか否かが判明するのであるが、同医師がとつた酸素投与の方針もまた、これを認めるに足りず、依然として、本件酸素投与に関して存する前記疑問は解消されることがない。

ただ、被告病院では、状態の変りやすい未熟児保育上重要な意義を有する児の監視態勢が不十分であつたことが認められるから、この点を考慮し、ある程度予防的にルーテインの酸素投与を行うことも、医師崎山の裁量の範囲内に属したことであつたのではないかとも考えられなくはないが、その前提としては、被告病院における監視態勢に照らし、原告雅人の状態が、そのようなルーテインの酸素投与を必要とするような状態であつたということでなければならないところ、具体的にこれを認めるに足りる証拠はない。

(三) ところで、先進的施設での実績に照らすと、酸素を投与しない未熟児にも本症の1、2期程度の活動期病変を見ることは稀ではないし、酸素投与例では、酸素管理を十分に行つても、原告雅人程度の極小未熟児では、3期まで進行する例がかなり見られる。しかし、更に進行して、本症の重症瘢痕例にまで至ることは少なく、全未熟児中、現に重症瘢痕例に至り、又は至る可能性があるとして光凝固治療を受けた児の占める比率は一・二パーセントから四・五パーセント程度までである。しかも、二パーセントを越える高い数値を出した施設では、いずれも光凝固を行つているところ、最近の永田医師の見解によれば、従来の光凝固例の中には、放置しておいても自然治癒が得られた症例が相当数含まれているということであるから、放置した場合における重症瘢痕例の発生頻度は、右数値よりもかなり低いものとなることが推測されるのである。また、重症段階まで進行する危険性が特に高いとされる出生体重一五〇〇グラム以下の未熟児でも、一〇中、八、九以上は、重症瘢痕例にまで至ることなく自然治癒しているのである。そして、重症瘢痕例に関する報告を見ると、そのほとんどは、特発性呼吸窮迫症候群とか無呼吸発作等の呼吸障害のため、長期間又は高濃度の酸素投与を余儀なくされた事例であり、このような重症の呼吸障害がなく、酸素投与を必要最小限度に止めて、なお、重症瘢痕例にまで至つた事例の報告はほとんどない。

なお、酸素管理等がよく行われている施設での右数値ないし実績が、漫然と酸素投与を行つた場合にはどの程度の数値に変るものかは、具体的にこれを明らかにすることはできないが、酸素投与量を制限することが、本症による失明児の発生防止上大きな効果があつたことは、前記欧米での経験に徴して明らかである。また、必要やむをえない酸素投与であつても、それが大量、又は長期間に及ぶと、本症が3期以上にまで進行する率が高まつてくることは、前記各報告の示すとおりであり、したがつて、不必要な長期間に及ぶ酸素投与と本症の進行との間には、かなり密接な関連性があるものと推測されるのである。

(四) 以上(一)ないし(三)を合せ考えると、原告雅人の生後暫くの間を除く、その後の酸素投与中には、前記医師崎山の従うべき酸素投与の指針に反する、同原告の状態に照らし、不必要で過剰な部分があり、同原告は、その過剰な酸素投与が原因となつて本症の増悪を見、失明の結果に至つたものと推認するのが相当であり、同医師に酸素投与上の過失があつたとする原告らの主張は理由がある。

四  薬物療法懈怠の主張について

本症の予防法ないし治療法としてその有効性の確認された薬物療法が未だ存在しないことは前記認定のとおりであり、したがつて、右主張については、その余の点について判断するまでもなく、採用できない。

五  早期転医措置懈怠の主張について

医師崎山が、原告雅人に被告病院におけるよりも程度の高い全身管理や酸素管理を受けさせるために早期転医の措置をとることをしなかつたことは、前記認定のとおりである。

ところで、医師崎山が未熟児の保育について十分な知識、経験を有していなかつたことは、証人崎山自身自認するところであり、加えて、同医師の多忙さや看護婦不足等から被告病院では必要にして十分な全身管理や酸素管理を行い難い状況にあつたことも前記認定のとおりである。

したがつて、同医師としては、ごく近隣に適当な未熟児保育施設があつたのであるならば、原告雅人をその施設に早期に転医させるのが望ましかつたことは確かであるが、近隣にはそのような施設が存在しなかつたことは前記認定のとおりであり、この地方では最も水準の高い医療措置を行うことのできる施設があるとされている北見市を含め、出生後間もない頃の極小未熟児を被告病院から比較的安全に移送できる範囲内にそのような施設が存在したことを認めるに足りる証拠はない。そして、生後一、二週間といえば、原告雅人の体重が一二四〇グラムから一一七〇グラムであつた頃のことであるが、証人中尾亨の証言によれば、このような低体重未熟児をその生命を損うことなしに長距離又は長時間移送することは実際上不可能であることが認められるので、右北見市等よりも以遠の地にそのような施設が存在したか否かは全く問題とならない。

したがつて、医師崎山に原告雅人を早期に転医させるべき義務の懈怠があつたとする原告らの主張は、転医に必要なポータブル保育器備付の要否、転医の際の医師又は看護婦付添の要否等の点につき判断するまでもなく、採用できない。

六  眼底検査及び光凝固治療のための転医措置並びに説明義務懈怠の主張について

1  前記のとおり、眼底検査は、光凝固法の登場によつて初めて臨床的意義を有するに至つたのであつて、それ以前には、本症の予防及び治療の観点からする意義はほとんどなく、かつて、昭和四〇年代前半には、眼底検査の所見によつて酸素投与量を調節するということや、眼底検査によつて本症の発症を知り、本症の初期の進行段階で薬物療法を施すということが考えられたこともあつたが、これらの方法はいずれも、今日に至るもなお、その実施を医師に義務づけるに足りるだけの合理性ないし有効性を承認されるまでに至つていない。したがつて、医師崎山は、光凝固治療施行以外の観点からする眼底検査実施義務は負つてはいなかつたということができる。

2  人の生命及び身体の健全性は最も尊重すべき価値であり、これらの確保をその職務とする医師は、右職務の性質に鑑み、患者の救命或いは重大な身体障害の結果回避のためには、その最善を尽すべきことが求められるというべきである。したがつて、医師は、自己の診察した患者の疾病につき、救命或いは重大な身体障害の結果回避のため、ある治療法による必要と適応が認められ、かつ、該治療法の存在と有効性に関する知見が自己の有すべき知見に属する場合において、該治療法が確立したものであるときには、自らこれを施行するか、又は患者に転医を命ずる等して患者に該治療法による治療を受けさせるよう努めなければならないのは当然として、該治療法が未確立のものであるときにおいても、該治療法自体の有する理論的正当性や、該治療法の開発者による臨床試験結果及び他の医師達による追試結果がいずれも好成績であつたこと等の理由から、該疾病診療の専門家たる医師達の間で、その有効性が承認されつつある程度の段階にまで達した治療法については、これを無視することは許されず、該治療法の有効性と危険性ないし該治療法が未確立である所以、他にとるべき方法の有無、このまま放置した場合に予想される悪い転帰等との関連において、該治療法の存在について患者側に説明し、患者側に該治療法による治療を受ける機会を与えるべき義務があるというべきである。

ところで、前記のとおり、昭和四六年秋の時点における光凝固法は、本症の確立した治療法となつていたとまでは認め難いが、少なくとも、同治療法の開発者である永田医師の臨床試験結果や、塚原教授、大島医師らによる追試結果がいずれも好成績であつた等の理由から、本症の診療に関心を有する眼科医達の間では、その有効性が承認されつつある段階にまでは達していたものと認められる。

しかしながら、前記のとおり、右時点では、未だ産婦人科医向け文献では、本症の治療法として光凝固法が存在することを紹介した記述は極めて少なく、したがつて、産婦人科診療の傍ら未熟児保育にもあたる産婦人科医が、日常購読している医学雑誌や手持の文献等から同治療法の存在についての知見を有するに至ることは必ずしも容易なことではなく、これらの文献の如何によつては、文献上からは同治療法の存在についての知見に到達しえない医師も少なくなかつたものと推認され、また、証人中尾及び同田川の各証言並びに前掲乙第二四号証によれば、当時の北海道内では、光凝固法の存在は、未だ産婦人科医の平均的認識となるまでには至つていなかつたことも窺われるのであつて、このような状況からすると、光凝固法の存在と有効性に関する知見が、当時既に、産婦人科診療の傍ら未熟児保育にもあたる産婦人科医の通常有すべき知見となつていたものとは認め難い。まして、未熟児保育ないし本症について相談すべき眼科医もいない僻地の病院にあつて、多忙な産婦人科診療の傍ら未熟児保育にもあたつていた医師崎山の場合には、通常の産婦人科医の場合以上に光凝固法の存在についての知見を有するに至ることは困難な状況にあつたものと認められる。

してみると、光凝固法の存在と有効性に関する知見が、本件診療当時医師崎山の有すべき知見であつたとは認め難く、したがつて、前記のとおり、同医師が当時光凝固法の存在について知らなかつたこと自体は、これを不当とはいえず、同医師が光凝固法の存在と有効性についての知見を有すべきことを理由に、同医師に対し、眼底検査及び同治療法を受けさせるべき義務を負わせることができないのはもとより、同治療法の存在及び眼底検査の必要性について説明する義務を負わせることもできないものといわざるをえない。

3  しかしながら、医師崎山は、次に述べる理由により、原告雅人につき、本症発症の有無、治療方法の存否、治療の必要性等につき専門医の診断を受けさせるため、眼科医受診を勧告、教示すべき義務があつたものといわなければならない。

即ち、前記事実上の専門医制のもとでは、医師は、自己の専門外の分野の疾病ないし診療方法に関しては、当該分野の専門医の水準での知見及び診療技術を有しないことにつき法的責任を問われるべきではないことは既述のとおりである。しかし、一方、医師は、医師として、その専門分野の如何にかかわらず、自己の診察した患者の健康の確保に努めるべき責務を負つているものというべきであるし、医師がその専門外の分野につき必要な知見等を有しないことの不利益を患者の側で一方的に忍ばなければならないというのも不合理である。してみると、医師は、自己の専門外の患者を診察した場合において、自己が該疾病ないし診療方法につき必要かつ十分な知見、技能を有しないときには、該患者に対して専門医への転医を勧告、教示すべきであり、転医困難等の特段の事情もないのに、不十分な知見、或いは未熟な診療技術のまま漫然と診療を継続することは許されないというべきである。

また、医師は、たとえ救命等の重大な必要性に基づき行う治療行為であつても、それに伴う副作用等の危険を最少限度に止めるべき努力を怠つてはならないのであつて、自己の治療行為により一定の副作用が生ずるおそれがあり、かつ、自己が該副作用たる疾病につき必要かつ十分な知見を有しないときには、これを漫然と放置することは許されず、少なくとも、患者に対し、該副作用たる疾病の存在等について説明し、然るべき専門医の受診を勧告、教示すべき義務があるものといわなければならない。

しかして、前記認定にかかる医師崎山の有すべき本症に関する知見等に照らすと、同医師は、大量かつ長期間に及ぶ酸素投与に伴い、原告雅人につき本症が発症しているおそれがあること、本症は最悪の場合には失明にまで至ることのある眼疾患であること及び本症罹患の有無、程度等を知るための眼底検査や本症の治療は本来眼科の分野に属するとの認識を有すべきであつたということができ、そして、第一及び第二記載の各事実及び証人崎山の証言を総合すると、同医師は眼底検査の器具、技能を有さず、本症の臨床経過や治療法等につき特に調査、研究したこともなく、本症につき必要かつ十分な知見を有していなかつたことが認められるから、同医師としては、同原告が本症に罹患しているか否かの検査及び有効な治療手段の有無等につき専門医の診断を受けさせるため、同原告の移送が可能となつた段階で、同原告の保護者に対し、眼科医受診を勧告、教示すべき義務があつたものといわなければならない。

更に、本症は失明という重大な身体障害の結果に至る危険のある疾病であり、しかも、本症の発症があるとするならば、それは医師崎山自身による治療行為の副作用である公算が高いのであるから、同医師としては、その結果防止のため万全を期すべきであり、また、本症は未熟児保育に酸素が用いられるようになつて発症を見るようになつた疾患で、その歴史は浅く、発症原因、臨床経過、治療方法等は未だ研究、開発の途上にあつたのであるから(本件診療当時、医師崎山がこの程度の知見を有すべきであつたことは、第二記載の本症の歴史的経過及び弁論の全趣旨に照らして明らかである)、かつては、的確な治療法はないといわれていた本症であつても、その後、本症を専門分野とする眼科領域において本症の治療法を含む本症研究の新たな展開があつた可能性も考えられないではなく、かつ、そのような場合に、新治療法等に関する情報が専門外の医師に伝わつてくるのが遅れがちになることは通常ありうる事態であり、更に、当時既に広く知られていたオーエンスの臨床経過の分類に照らしても、本症が重症段階にまで進行してしまつた後では、いかなる治療法も効を奏さないであろうことは容易に見当がついたはずであるから、医師崎山としては、それほど生命に対する危険を伴うことなしに原告雅人の移送が可能となつた段階で、同原告の保護者に対し、本症の診療を専門分野とする眼科医受診を勧告、教示すべきであつたというべきである。

そして、普通、未熟児も体重が二〇〇〇グラムまで達すると生命の方は大体安心であり、未熟児施設では、児の体重が二五〇〇グラムを超えると退院の準備を行うものとされていることから判断すると、原告雅人の場合にも、保育器から出され、体重も二六〇〇グラムに達した生後六三日目の一一月二九日頃には、同原告の両親だけででも、網走或いは北見の眼科医を受診させる程度のことは可能となつていたものと推認される(これに反する証人崎山の証言は信用できない)。そして、前記認定のとおり、本症の臨床経過や本症の治療法としての光凝固法の存在とその有効性については、当時既に、眼科医であれば、日常購読している医学文献等を通じて容易に知りうる状態となつており、眼科医として有すべき知見に属したということができるから(現に、網走の小野田医師が本症の治療法として光凝固法が存在するとの知見を有していたこと、同医師、北見の宮沢医師のいずれもが、昭和四七年二月頃、原告雅人の目を検査して、水晶体後部線維増殖症との診断名を付しえていることは前記認定のとおりである)、もし、原告雅人が昭和四六年一一月頃末頃、これらの眼科医達を受診しておれば、これらの医師達から、少なくとも、本症罹患の疑いあり程度の診断を受けえたうえ、光凝固法なる治療法が存在することについて説明を受けることができ、当時既に本症治療のため光凝固法を試み始めていた北海道大学医学部付属病院等において、光凝固治療を受ける機会が与えられた蓋然性が高い。

そして、前記天理病院等において光凝固治療が実施された時期の分布状況に照らすと、この頃であれば(退院時においてもなお)、未だ光凝固の適応時期を過ぎておらず、光凝固治療を受けることによつて失明を回避できた蓋然性が認められる。

しかし、一方、本症の臨床経過は症例ごとに様様であり、右光凝固の実施時期の分布も、生後五週目頃から始まつているところ、本症に関する原告雅人の臨床経過は全く不明であるから、前示のような経過で同原告に光凝固治療を受ける機会が与えられたとしても、その時には、既に光凝固の適応段階を過ぎた後であつた蓋然性もまた否定できず、更に、光凝固法は、適期にこれを行えば絶対に本症の進行を阻止しうるというまでの確実性は有しておらず、ことにII型の本症に対する阻止効果に関しては、奏効しなかつたとする報告例もあるので、同原告に光凝固治療を施してみても、同原告の本症の進行を阻止できなかつた可能性もまた否定できない。しかも、前記失明を回避できた蓋然性の方が、これら失明を回避できなかつた蓋然性ないし可能性よりも、少なくとも相当程度が高いことを肯認するに足りる証拠もない。

また、しかし、本件において、医師崎山による眼科医受診勧告の懈怠と原告雅人の失明との間の因果関係の立証が右の程度に止まらざるをえない理由を考えると、それは同原告が光凝固治療を受けることが可能であつた時期が、同原告の長距離移送が可能となつた時期以降に限定されるということも一因ではあるが、根本的には、同医師の眼科医受診勧告の懈怠によつて、同原告の眼底検査がなされず、光凝固治療を受ける機会が与えられなかつたことによるものである。

そして、そうであるからには、右因果関係の立証が右の程度に止まつたことの不利益をすべて原告側に帰せしめるというのは明らかに不公平であつて不当であるから、前記失明を回避できた蓋然性が証明されたことでもつて右因果関係はこれを肯認するのが相当であり、依然として後者であつた蓋然性ないし可能性が残されている点は損害額の算定中において考慮すれば足りるものというべきである。

してみると、原告雅人は、医師崎山の眼科医受診勧告、教示義務の懈怠によつて光凝固治療を受ける機会を失い、本症による失明を回避できなかつたものと認めることができる。

第四被告の責任

被告が医師崎山を雇傭し、被告病院において医療行為にあたらせていたことは当事者間に争いがなく、原告雅人が同医師の酸素管理上の過失によつて失明に至る重症の本症に罹患し、同医師の眼科医受診勧告、教示義務の懈怠によつて光凝固法による本症治療の機会を与えられないまま失明するに至つたものであることは前記のとおりである。そうすると、被告は、その余の責任原因について検討するまでもなく、民法七一五条によつて原告らの後記損害を賠償すべき責任がある。

第五原告らの損害

一  医師崎山の過失の損害に対する寄与の程度

原告雅人が本症により失明するに至つたのは、結局医師崎山の診療上の過失に基づくものであり、被告は民法七一五条により原告らに生じた損害を賠償すべき義務があることは前記のとおりである。しかし、同原告が本症により失明するについては、同原告が在胎週数約三〇週、出生体重一三五〇グラムの極小未熟児であつたため、本症の素因たる網膜の未熟児の程度が高く、容易に重症の本症に至る危険性の高い状態にあつたものと推認され、しかも、同原告はある程度の酸素投与を余儀なくさせるような全身状態にあり、これら同原告側の要因に医師崎山の前記診療上の過失が競合して失明の事態を招来したものであること、更に、同原告が光凝固法により失明を免れえたか否かにつき、因果関係の問題としては前記認定のとおりこれを積極に解しうるとしても、治療適期を逸していた蓋然性や光凝固法が奏効しなかつた可能性自体はこれを否定し去ることはできないことを考慮すると、公平の観点から見て、原告らに生じた損害全部を被告に負担させるのは妥当ではなく、被告の負担すべき損害は医師崎山の過失が失明の結果に寄与した限度に止めるのが相当というべきである。

そこで、右に指摘した原告雅人の失明に関係した同原告側の要因及び光凝固治療をめぐる不確定要因並びに前記医師崎山の診療上の過失内容を中心に同医師の過失の失明の結果に対する寄与割合について総合考量すると、同寄与割合は六割とするのが相当であり、したがつて、被告は原告らの損害のうちの六割につき賠償責任を負うものというべきである。

二~四 〈省略〉

第六結論〈省略〉

(裁判官 浜井一夫 小池洋吉 竹田隆)

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